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'''龍運鉱山'''(りゅううんこうざん)、または'''ヅングン鉱山'''(Dungun mine)はかつて[[マレー半島]]にあった[[鉄]]鉱山。[[トレンガヌ州]]の龍運川([[ドゥングン川]])の上流に山元があった<ref>田中館(1942)pp.158-159。同書では、上流4.8キロメートルの「ボケ・チェクジャー」から西に29.5キロメートルの「テボウ村」から東南約5キロメートルの位置にあった、としているが、不詳。</ref>。[[鉄鉱石]]の産出量は、1938年時点で約82.0万トンないし58.6万トン、埋蔵量は、1937-39年時点で約5,100万トン、1942年時点で2,000-10,000万トンと推定されていた<ref>奈良(1980)pp.8,9、田中館(1942)pp.158-159。田中館(1942)p.155では、埋蔵量を1,000-2,000万トンとしている。</ref>。
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'''龍運鉱山'''(りゅううんこうざん)、または'''ヅングン鉱山'''(Dungun mine)は、かつて[[マレー半島]][[トレンガヌ州]][[ドゥングン川]](Sungai Dungun)の上流にあった[[鉄]]鉱山。[[鉄鉱石]]の産出量は、1938年時点で約82.0万トンないし58.6万トン、埋蔵量は、1937-39年時点で約5,100万トン、1942年時点で2,000-10,000万トンと推定されていた<ref>奈良(1980)pp.8,9、田中館(1942)pp.158-159。田中館(1942)p.155では、埋蔵量を1,000-2,000万トンとしている。</ref>。
 
<!--1930-1943年の生産・輸出高は、9.0,15.4,22.9,39.9,50.0,68.2,102.7,114.8,58.6,95.6,110.7,50.5,13.2,6.8万トン。奈良(1980)p.9-->
 
<!--1930-1943年の生産・輸出高は、9.0,15.4,22.9,39.9,50.0,68.2,102.7,114.8,58.6,95.6,110.7,50.5,13.2,6.8万トン。奈良(1980)p.9-->
  
鉱石は山元からドゥングン河の河口まで私設の単線鉄道によって運搬され、[[艀]]により河口の沖で積荷されていた<ref>田中館(1942)p.159、奈良(1980)p.8</ref>。
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鉱石は山元から、ドゥングン川河口のクアラ・ドゥングン([[wiki:ms:Kuala Dungun|Kuala Dungun]])の上流約3キロメートルにあるチェリジャー(Che Lijah)まで、私設の単線鉄道によって運搬され、チェリジャーから[[艀]]によって川を下り、河口の沖合いで積荷されていた<ref>田中館(1942)pp.158-159、奈良(1980)p.8、南洋及日本人社(1938)p.404</ref>。
  
元々、鉱山はトレンガヌ王族が所有していたが、1917年に日本鉱業の前身にあたる久原鉱業が鉄山を買収<ref name="奈良(1980)p.10">奈良(1980)p.10</ref>。その後、英国の管理組織変更などがあり、同社は改めて1924年に探鉱権、1926年に採掘権の申請を行い、認可を得た<ref name="奈良(1980)p.10" />。
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元々、鉱山はトレンガヌ王族が所有していたが、1917年に[[日本鉱業]]の前身にあたる久原鉱業が鉄山を買収<ref name="奈良(1980)p.10">奈良(1980)p.10</ref>。その後、英国の管理組織変更などがあり、同社は改めて1924年に探鉱権、1926年に採掘権の申請を行い、認可を得た<ref name="奈良(1980)p.10" />。
  
久原鉱業は1927年に[[八幡製鉄所]]と年25万トンの売買契約を締結し、1929年に事業を継承した[[日本鉱業]]が[[1930年]]から本格的に採掘を開始、1930年代後半には採掘量においてマレー半島の鉄鉱山の中でも第1位を占める大規模な鉱山だった<ref>奈良(1980)pp.5,7,10</ref>。
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久原鉱業は1927年に[[八幡製鉄所]]と年25万トンの売買契約を締結し、1929年に事業を継承した日本鉱業が[[1930年]]から本格的に採掘を開始、1930年代後半には採掘量においてマレー半島の鉄鉱山の中でも第1位を占める大規模な鉱山だった<ref>奈良(1980)pp.5,7,10、南洋及日本人社(1938)p.403</ref>。
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龍運鉱山や[[太陽鉱山]]などのケママン地方の鉄鉱山は、山元に近い川の上流の水深が浅いため一部鉄道による輸送を要したほか、海が遠浅のため大型船が沖合に停泊して荷役を行っており、12月-3月には[[モンスーン]]のため沖合いでの荷役が困難になり、その間休鉱を余儀なくされるため生産費が嵩み、競争上不利な面があった<ref>奈良(1980)p.31、時事新報(1932)、田中館(1942)p.160。</ref>。
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また龍運鉱山では、1938年頃までに一時悪性の[[マラリア]]が流行して多数の犠牲者を出したことがあり、周囲の雑木林や雑草を切り払って蚊の発生を防止した<ref>南洋及日本人社(1938)p.404</ref>。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
 
*奈良(1980) 奈良文二「日本鉄鋼業と『南洋』鉄鋼資源」国際連合大学『国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告』1980年、[https://d-arch.ide.go.jp/je_archive//society/wp_unu_jpn38.html IDE-JETRO HOME > 研究テーマ別に論文を読む (鉄鋼) > 論文一覧 > 論文ページ ]
 
*奈良(1980) 奈良文二「日本鉄鋼業と『南洋』鉄鋼資源」国際連合大学『国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告』1980年、[https://d-arch.ide.go.jp/je_archive//society/wp_unu_jpn38.html IDE-JETRO HOME > 研究テーマ別に論文を読む (鉄鋼) > 論文一覧 > 論文ページ ]
*田中館(1942) 田中館秀三「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、pp.137-170、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875557/76 NDLJP:1875557/76] (閉)
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*田中館(1942) [[田中館秀三]]「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、pp.137-170、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875557/76 NDLJP:1875557/76] (閉)
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*南洋及日本人社(1938) 南洋及日本人社「日本鉱業のドングン鉱山」『南洋の五十年』章華社、1938年、pp.403-405、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462610/231 NDLJP:1462610/231]
 
== 関連文献 ==
 
== 関連文献 ==
*日本鉱業株式会社『50年史』1957年、p.693<ref name="奈良(1980)p.10" />
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*日本鉱業株式会社五十年史編集委員会(編)『五十年史』日本鉱業、1957年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2485273 NDLJP:2485273] (閉)、p.693<ref name="奈良(1980)p.10" />
*藤村幸一「馬来半島龍運鉄山に就て」『日本鉱業会誌』no.595、1934年11月<ref name="奈良(1980)p.10" />
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*藤村(1934) 藤村幸一「馬来半島龍運鉄山に就て」『日本鉱業会誌』no.595、1934年11月、pp.909-921、{{doi|10.11508/shigentosozai1885.50.909}}
 
== 脚注 ==
 
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2017年9月18日 (月) 19:40時点における最新版

龍運鉱山(りゅううんこうざん)、またはヅングン鉱山(Dungun mine)は、かつてマレー半島トレンガヌ州ドゥングン川(Sungai Dungun)の上流にあった鉱山。鉄鉱石の産出量は、1938年時点で約82.0万トンないし58.6万トン、埋蔵量は、1937-39年時点で約5,100万トン、1942年時点で2,000-10,000万トンと推定されていた[1]

鉱石は山元から、ドゥングン川河口のクアラ・ドゥングン(Kuala Dungun)の上流約3キロメートルにあるチェリジャー(Che Lijah)まで、私設の単線鉄道によって運搬され、チェリジャーからによって川を下り、河口の沖合いで積荷されていた[2]

元々、鉱山はトレンガヌ王族が所有していたが、1917年に日本鉱業の前身にあたる久原鉱業が鉄山を買収[3]。その後、英国の管理組織変更などがあり、同社は改めて1924年に探鉱権、1926年に採掘権の申請を行い、認可を得た[3]

久原鉱業は1927年に八幡製鉄所と年25万トンの売買契約を締結し、1929年に事業を継承した日本鉱業が1930年から本格的に採掘を開始、1930年代後半には採掘量においてマレー半島の鉄鉱山の中でも第1位を占める大規模な鉱山だった[4]

龍運鉱山や太陽鉱山などのケママン地方の鉄鉱山は、山元に近い川の上流の水深が浅いため一部鉄道による輸送を要したほか、海が遠浅のため大型船が沖合に停泊して荷役を行っており、12月-3月にはモンスーンのため沖合いでの荷役が困難になり、その間休鉱を余儀なくされるため生産費が嵩み、競争上不利な面があった[5]

また龍運鉱山では、1938年頃までに一時悪性のマラリアが流行して多数の犠牲者を出したことがあり、周囲の雑木林や雑草を切り払って蚊の発生を防止した[6]

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 日本鉱業株式会社五十年史編集委員会(編)『五十年史』日本鉱業、1957年、NDLJP:2485273 (閉)、p.693[3]
  • 藤村(1934) 藤村幸一「馬来半島龍運鉄山に就て」『日本鉱業会誌』no.595、1934年11月、pp.909-921、DOI 10.11508/shigentosozai1885.50.909

脚注[編集]

  1. 奈良(1980)pp.8,9、田中館(1942)pp.158-159。田中館(1942)p.155では、埋蔵量を1,000-2,000万トンとしている。
  2. 田中館(1942)pp.158-159、奈良(1980)p.8、南洋及日本人社(1938)p.404
  3. 3.0 3.1 3.2 奈良(1980)p.10
  4. 奈良(1980)pp.5,7,10、南洋及日本人社(1938)p.403
  5. 奈良(1980)p.31、時事新報(1932)、田中館(1942)p.160。
  6. 南洋及日本人社(1938)p.404