「後北条氏」の版間の差分
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その一方で、豊臣政権が目指していたのは北条氏を滅亡させる事ではなく、あくまでも[[惣無事令]]の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を掌握する事で全国の諸大名を支配する事にあったとする説もある。徳川氏や島津氏などは豊臣政権とは一度は交戦に至ったものの、最終的な決戦を前に当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓う事によって本領が安堵されている。現に真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初は仲裁者の立場に立っており、結果的に一度は北条氏有利の裁定を下しているのである。もしもこうした双方の思惑の違いが「ボタンの掛け違い」を生み出すことが無ければ、北条氏滅亡は避けられたのかもしれないといわれている。 | その一方で、豊臣政権が目指していたのは北条氏を滅亡させる事ではなく、あくまでも[[惣無事令]]の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を掌握する事で全国の諸大名を支配する事にあったとする説もある。徳川氏や島津氏などは豊臣政権とは一度は交戦に至ったものの、最終的な決戦を前に当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓う事によって本領が安堵されている。現に真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初は仲裁者の立場に立っており、結果的に一度は北条氏有利の裁定を下しているのである。もしもこうした双方の思惑の違いが「ボタンの掛け違い」を生み出すことが無ければ、北条氏滅亡は避けられたのかもしれないといわれている。 | ||
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2008年3月15日 (土) 13:13時点における版
後北条氏(ごほうじょうし)とは伊勢盛時(北条早雲)に始まる関東地方の戦国大名北条氏を後世の研究者らが鎌倉幕府の執権北条氏と区別して呼んだ便宜上の名称である。居城の名から小田原北条氏とも呼ばれる。家系は桓武平氏伊勢氏流。代々家督は御本城様と呼ばれた。三つ鱗の家紋は蝶紋に準じた桓武平氏の代え紋で、北条・伊勢の両氏に共通する。後北条氏では高さを低く変形させて「北条三つ鱗」を主の家紋としている。通し字は「氏」。
目次
概要
北条氏は、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族である伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が1476年の今川氏の内紛の際に甥の今川氏親を支援したことが関東圏に勢力を築くきっかけとなった。この功績により氏親に駿河国興国寺城を与えられて本拠とし、力を蓄えて1493年に足利茶々丸の堀越公方を滅ぼした。この後、積極的に伊豆国を侵略して所領とし、下克上を現実のものとした日本史上初の戦国大名とされる。1495年(近年では1501年説もある)に大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城にて三浦氏の三浦義同を滅ぼして、相模国全域を征服した。宗瑞の子氏綱の時、名字を伊勢から北条に改め、北条氏を称した(遡って伊勢宗瑞を「北条早雲」と呼ぶのはこのため)。
伊勢氏から北条氏へ
先に述べたように北条氏の本姓は伊勢氏(備中伊勢氏)である。現在では伊勢氏は室町幕府に仕えた身分の高い一族であることが判明しており、関東支配において不利になる要素ではなかった。それでもなお北条の名にこだわったのは、鎌倉幕府を支配した執権北条氏の影響力を利用しようとしたためと言われている。歴史研究家・小和田哲男の主張によると、北条氏は京都との接触を最低限に止め平将門以来、関東にある独立の願いを具現化することが目的としていたとされる。そのために関東管領職の継承を至上の望みとし、関東管領を長とした関東独立国家を目指していたのである。
拡大
北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続き、関東管領の上杉氏や関東公方足利氏を追って関東地方に勢力を振るった。古河城を治めた後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下であった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退が目立つが、着実に支配を広めた。織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結ぶなど、最大版図は240万石に達したとされる[1]。
軍事面での評価
10万の動員を可能とした北条の戦力は伊達氏・北条氏・徳川氏・長宗我部氏、織田信雄を結ぶブロックの形成をも見据えた構えを示し、関東自立を目指した。
早雲の代に上杉配下の幕僚であった太田道灌の発案と言う足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模であり、鉄砲の導入にも積極的であった。
技能集団として「忍者」の実態には諸説あるが、傭兵や後代の賤民集団に繋がる人達であったと解釈される場合が多い。例外的に当家の風魔小太郎は「歴(れっき)とした士分」として国政に参加していた記録が残っている。
内政面での評価
内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際などに大掛かりな検地などを行うことで在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、飢饉の際に減税を施すなど公正な民政により安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
家庭内において、正室が重んじられ一族のほとんどが同母兄弟となっている。これらの政策により、末期の混乱に至るまでは家臣の離反や継嫡騒動の見られない希有な戦国大名だった。近隣の武田氏、今川氏などの家中が混乱を極めたことと比すると特長が映える。
東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血筋を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来によるシステムの整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年次に家督交代して徳政令を施すなど、地方にあっては極めて稀有な組織的に洗練された家中体制であったと評価できる。
小田原征伐
小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐で電撃的に西日本を統一した豊臣氏への服従を拒否したため、1590年に豊臣秀吉の征伐(小田原の役)を受け滅亡、戦国時代は終焉を迎えた。この時点まで秀吉は明智光秀・柴田勝家などの勢力を滅ぼしたとはいえ、「毛利」・「長曾我部」・「島津」・「徳川」・「織田」といった大名家を廃することなく処した。しかし北条氏が最終的に断絶の仕置きとなったのは、強すぎた北条の存在を背景に政治的な戦略を考慮しなくてはならなかったためだとする説がある。日本の東西が別の国であるかの如き認識は、当時一般的なものであったと思われる。後北条氏は天下統一を否定し、東国の主を目指したことが考察できる。
その一方で、豊臣政権が目指していたのは北条氏を滅亡させる事ではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を掌握する事で全国の諸大名を支配する事にあったとする説もある。徳川氏や島津氏などは豊臣政権とは一度は交戦に至ったものの、最終的な決戦を前に当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓う事によって本領が安堵されている。現に真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初は仲裁者の立場に立っており、結果的に一度は北条氏有利の裁定を下しているのである。もしもこうした双方の思惑の違いが「ボタンの掛け違い」を生み出すことが無ければ、北条氏滅亡は避けられたのかもしれないといわれている。
北条氏は氏政の代において、織田信長に臣従を申し出ている。氏直の嫁を織田氏より迎えて織田の分国としても構わないという提案である。武田勝頼が織田信長と同盟して敵対しかねないという状況で、先手を打って織田と同盟するための先見的な策であったと言える。しかし、武田征伐の恩賞は無く一益の関東入りとなっていた。本能寺の時点で同盟は中途な効果となり北条家が上方に不信感を募らせる遠因と見なされる。
小田原征伐以後
小田原城開城の際、隠居の氏政及び氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎処分中とはいえ大名待遇の1万石を家臣や家の維持費用に給されていた。翌1591年、領土喪失のショックで鬱状態だったと言われる氏直は疱瘡で死去。その翌年頃には秀吉により、大名としての北条氏の復活が予定されていたと諸記録および情勢から推定される中での無念の死であった。ここに大名・後北条氏本家は滅びる。子に氏次らがいたとされるが詳細は不詳。
その後の北条氏(主に江戸時代)は
- 氏直の弟(氏政四男?)である直重(後に千葉邦胤の養子となり、「千葉直重」と名乗る)は阿波蜂須賀氏に仕官し苗字を大石、のちに北条氏の元の姓である伊勢と変更しながら続いた。
- 氏直の叔父に当たる氏規が秀吉より河内狭山に7千石の所領を貰い、子・氏盛の代に氏盛自身の所領・下野4000石と父の遺領7千石の合算継承が認められ、合計1万1000石となり大名として立藩。関ヶ原の戦いでは東軍に属し犬山城に入った。氏盛の子孫が河内国狭山藩(現在の大阪狭山市)の藩主として存続した。狭山北条氏はその後、減封に遭ったり、数度に渡り養子を迎えたりしながらも幕末を迎える。明治維新後は大名として華族に列せられ、1万石の定格で子爵を授けられた。公明党書記長・創価学会4代会長を務めた北条浩はその末裔に当たり、実弟が現当主にあたる。
- また傍系であり鎌倉衆をたばねていた(綱成子孫)氏勝が徳川家康に仕え、功を重ねて大名として立藩した(岩富藩1万石から、最終的に次代で掛川藩3万石で無嗣改易)。その後氏勝の甥に当たる氏長が幕臣として500石で登用されたのち、功績を重ねて2000石超、子孫も功績を重ね最終的に3400石余の大身旗本としてこれも北条氏の家名を存続させた。
- その他特殊な例として氏忠の娘・姫路が西国の毛利氏に逃れた。毛利輝元は家臣・出羽元盛の次男を姫路に婿入りせて「北条就之」と名乗らせた。この北条氏は江戸時代を通じて萩藩士として活動し、幕末には志士・瀬兵衛(伊勢氏華)を出した。
その他旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えた。また、各大名家にも人物を輩出した。
小田原市では北条早雲から北条氏直までを祀った、北条五代祭を毎年行っている(北条五代祭)。
戦国大名後北条氏の関連項目
- 神奈川県立歴史博物館
- 小田原城址公園
- 鉢形城歴史館
- 八王子市郷土資料館
- 行田市立博物館
- 高越城址公園
- 早雲の里荏原駅
主な一族
数字は当主継承順位
- 伊勢宗瑞(北条早雲)【一】
- 北条氏綱【二】 - 宗瑞長男
- 北条氏時 - 宗瑞次男
- 北条氏広(葛山氏広) - 宗瑞三男
- 北条幻庵 - 宗瑞四男
- 北条綱高 - 氏綱養子(妻は宗瑞娘)
- 北条綱成 - 氏綱(または為昌)婿養子
- 北条為昌 - 氏綱三男
- 北条氏尭 - 氏綱四男
- 北条氏康【三】 - 氏綱長男
- 北条氏政【四】 - 氏康次男(長男夭折のため実質長男)
- 北条氏照(大石氏照、油井氏照) - 氏康三男
- 北条氏邦(藤田氏邦) - 氏康四男
- 北条氏規 - 氏康五男
- 北条氏忠(佐野氏忠) - 氏康六男
- 北条三郎(上杉景虎) - 氏康八男(上杉氏へ養子)
- 北条氏光 - 氏康九男
- 北条氏直【五】 - 氏政次男(長男夭折のため実質長男)
- 太田源五郎(実名不詳) - 氏政三男
- 北条氏房(太田氏房) - 氏政四男(源五郎を継承)
- 千葉直重(北条直重) - 氏政五男(下総千葉氏を継承)
- 北条直定(氏定) - 氏政六男
- 北条氏繁 - 綱成長男
- 北条氏舜 - 氏繁長男
- 北条氏勝 - 氏繁次男
- 北条氏成(直重) - 氏繁三男
- 千葉直胤(北条直胤) - 氏繁四男(武蔵千葉氏を継承)
- 北条繁広 - 氏繁五男
主要家臣
後北条氏の城
家臣団
カッコ内は人数
- 江戸衆(103)
- 小田原衆(34)
- 御馬廻衆(94)
- 御家門方(17)
- 玉縄衆(18)
- 他国衆(28)
- 小机衆(29)
- 伊豆衆(29)
- 松山衆(15)
- 三浦衆(32)
- 諸足軽衆(20)
- 津久井衆(57)
系譜
凡例 - 太線は実子、細線は養子、太字は当主
- 後北条宗家
早雲(伊勢盛時)1(本人は北条を名乗っていないが、通常彼から北条氏の初代と数える) ┣━━┳━━┳━━┓ 氏綱2 氏時 氏広 長綱 ┣━━┳━━┓ 氏康3 為昌 氏尭 ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏政4 氏照 氏邦 氏規 氏忠 景虎 氏光 ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏直5源五郎 氏房 直重 直定 氏盛 氏則 ┃ ┃ 氏次 氏時 ┃ 氏時
- 北条長綱系統
長綱 ┝━━┳━━┳━━┳────┐ 氏隆 氏信 綱重 長順 氏秀 ┃ 氏隆
為昌 | 綱成 ┣━━┓ 氏繁 氏秀 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏舜 氏勝 氏成 直胤 繁広 ┝━━┳────┐ 繁広 氏明 氏重 ┃ 正房 ┣━━━━━━━━┳━━┓ 氏平 氏元 氏如 ┣━━┓ | 氏英 勝広 氏如 ┃ | 氏庸 氏孝 | ┣━━┓ 氏応 義氏 氏紀 | | 氏興 氏紀 ┣━━┳━━┓ ┝────┬────┐ 氏乾 氏統 興紀 知恭 氏泰 氏統 ┣━━┳━━┓ | 氏征 乾晴 乾任 氏富
- 狭山藩主家
氏盛1 ┣━━┳━━┓ 氏信2 氏利 氏重 ┃ ┣━━┳━━┳━━┓ 氏宗3 氏治 氏清 氏澄 氏朝 | 氏治4 | 氏朝5 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏貞6 民部 氏副 氏従 氏比 ┣━━┳━━┳━━┓ 氏彦7 正喬 氏格 恭順 ┣━━┓ 氏昉8 氏幹 ┣━━┓ 氏喬9 氏迪 | ┃ 氏久10氏燕 | 氏燕11 | 氏恭12 ┣━━┳━━┓ 謙吉 釐三郎 雋八 ┣━━┓ 尚 浩
註
関連項目
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