「新潟少女監禁事件」の版間の差分
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2014年7月21日 (月) 16:01時点における版
新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)は、2000年1月28日、新潟県柏崎市の加害者佐藤宣行(当時28歳)宅に別件(母親への暴力)で訪れた職員が、中にいた佐野房子(当時19歳)を発見・保護に至り、発覚した事件。
概要
佐野は小学校4年生だった1990年11月13日、新潟県三条市で下校途中に行方不明になっていた。実に9年2ヶ月にのぼる誘拐監禁事件であり、社会に多大な影響を与えた。保護されたとき、佐野は19歳で、PTSDと診断され現在も療養しながら生活を送っている。
佐藤宣行(犯行当時28歳)の裁判では、男が問われた監禁致傷罪と窃盗罪を併せた併合罪の処理が争点となり、最高裁まで争われた。2010年現在、佐藤は懲役14年が確定し、千葉刑務所に服役中。
裁判の争点
当時の監禁致傷罪(221条)の最高刑は懲役10年であり、窃盗罪(235条)もまた懲役10年であった。そして、併合罪(45条)は47条で「併合罪のうちの2個以上の罪について有期の懲役又は禁錮に処するときは、その最も重い罪について定めた刑の長期にその2分の1を加えたものを長期とする。」と定めている。そうすると形式的には懲役15年の枠内で自由に量刑が出来そうである。
ただ、枠内で自由に量刑を定められるとすれば、普通なら不起訴になる軽微な犯罪を併合罪として起訴することで法定の最高刑を簡単に超えられてしまうとも考えられる。実際、本件で追起訴された窃盗罪の被害額は2464円相当であり、弁償もされていたので普通は起訴されることのない犯罪である。
そこで、併合罪がいわゆる併科主義による過酷な結果の回避という趣旨を持つことを前提とした上で、個別の罪の量刑を定めて合算すべきなのか(高裁)、科刑上限の枠内で判断すれば良いのか(地裁)が争点となった。最高裁は後者を支持した。
関連する出来事
- 佐藤は1989年6月13日に、別の女児に乱暴し同年9月19日有罪判決を受けていたが、警察の被疑者リストには記載されず、警察の杜撰な初動捜査が浮き彫りになった。
- 被害者が保護された際、新潟県警本部長が関東管区警察局長を東蒲原郡三川村(現阿賀町)で麻雀接待していたことが後に発覚、事件の報を聞いても幹部たちは接待を続けた事で、警察への信頼は大きく揺らいだ。
- 特定失踪者問題調査会が“北朝鮮に拉致された可能性のある人物”として佐野をリストに入れており、「認定」の杜撰さを指摘する声が一部で上がった(北朝鮮メディアも「拉致問題の否定」のためにこの事件を報道した)。
事件、裁判の経緯
- 1990年11月13日、新潟県三条市で下校途中に、小学4年生だった佐野房子が連れ去られ、行方不明になる。 この後9年間に渡って監禁されていたことが後に判明する。
- 2000年1月28日 柏崎保健所職員が、母親への暴力という相談を受けて佐藤の自宅へ入る。その際に被害者を発見し保護。男は精神不安定により入院。
- 2000年2月10日 佐藤宣行は1989年、当時9歳の女児を乱暴しようとして逮捕されていたにも関わらず、県警が佐藤の名前を容疑者リストからはずしていたことが明らかに。
- 2000年2月11日 佐藤宣行を逮捕。
- 2000年3月3日 佐藤宣行を、被害者を監禁し、よってけがを負わせた監禁致傷罪で起訴。
- 2000年5月23日 新潟地裁で初公判。佐藤宣行は罪を認めるものの、弁護側は精神鑑定を請求。
- 2000年6月26日 地元のデパートから女性用の下着を万引きした窃盗罪で男を追起訴。
- 2001年9月6日 「完全責任能力あり」と鑑定担当の医師が結果を提出。
- 2002年1月22日 新潟地裁、懲役14年判決(求刑15年)。
- 2002年1月24日 弁護側、判決を不服として控訴。
- 2002年12月10日 東京高裁、「第一審は併合罪の処理を誤っている」として懲役11年に減刑。
- 2002年12月24日 検察側、弁護側共に上告。
- 2003年7月10日 最高裁、「併合罪は個々の罪を別々に処理するのではなく、全体を統一し処理すべきだ」との初判断を示し、懲役14年判決(控訴棄却の自判)。確定。