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+ | 1942年における山口登の死後しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年に[[田岡一雄]]を首領に据えた三代目体制が発足。この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代{{small|〔1955〜1964〕}}から昭和40年代{{small|〔1965〜1974〕}}にかけて全国各地へ進出。[[抗争|対立抗争]]を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった。 | ||
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+ | 警察当局によるいわゆる『[[第一次頂上作戦]]』のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の[[中興の祖]]として記憶されるに至った。 | ||
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+ | 2004年から長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していた渡辺であったが、2005年の7月に引退を表明。予期なき突然の引退であった。ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。そして若頭の役にあった[[司忍]]の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発足し現在に至っている。 | ||
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+ | :一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。 | ||
+ | 加えて年度ごとに定められる「組指針」がある。 | ||
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+ | 六代目体制発足以降「[[警察官]]と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離を置いている。「山口組を含めて、六代目の体制になってからは警察に速やかに入り、調べてもらいなさいという姿勢をとっている。昔はどったんばったんやったりして殴られたりもしたが」と記者の質問に答えており、警察との関わりに変化が見られる。いわゆる不良外国人との付き合いや、[[違法薬物]]の取り扱いなども公式に禁止している。 | ||
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2013年1月4日 (金) 15:42時点における版
山口組(やまぐちぐみ)は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団。
その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46.3%を占めている。2012年2月、アメリカ合衆国に経済制裁の対象になる。組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。
“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし)と呼ばれる代紋を用い、広島県と沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。
目次
来歴
黎明
山口春吉が沖仲仕を集めて神戸市内を本拠に結成。のちに“神戸ヤクザの頂点”と言われるに至る大嶋秀吉率いた大嶋組の傘下にあっての結成で、およそ50名の労務者を抱える『山口組』として発足。事務所を兵庫区の西出町内に置いた。1915年(大正4年)のことであった。
しばらくは大嶋組の傘下にあって活動したものの、いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、1925年における山口登の二代目襲名を経て、神戸中央卸売市場の開設に伴う利権を巡り大嶋組と対立。死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得るに至り、1932年をもって大嶋組から独立した。
三代目:急成長
1942年における山口登の死後しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足。この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代〔1955〜1964〕から昭和40年代〔1965〜1974〕にかけて全国各地へ進出。対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった。
田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年までに、傘下424団体、総勢9450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、小松島抗争、明友会抗争、鳥取抗争、博多事件、広島代理戦争、松山抗争などが主要なそれであった。
警察当局によるいわゆる『第一次頂上作戦』のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。
四代目から21世紀へ
1984年における竹中正久の襲名によって四代目体制が発足するも、これを不服とした離反勢力を相手とする大規模な抗争(→山一抗争)に突入。その過程で抗争相手の一和会により暗殺された竹中に代わって、抗争が終結するに至った平成元年〔1988〜1989〕、傘下山健組を率いた渡辺芳則を首領に据える五代目体制が発足。
五代目体制期の1995年に阪神淡路大震災が発生すると、地元紙記者をして『半端なものではなかった』と言わしめた、渡辺自身の陣頭指揮による組織ぐるみの救援活動を展開。1997年になると五代目体制開始以来の非常事態と言われた宅見若頭射殺事件が発生。この事件は以後の組織に混迷をもたらす未解決の懸案となった。
2004年から長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していた渡辺であったが、2005年の7月に引退を表明。予期なき突然の引退であった。ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。そして若頭の役にあった司忍の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発足し現在に至っている。
綱領と組指針
田岡三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。
- 一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
- 一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
- 一、長幼の序を弁え礼に終始す。
- 一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
- 一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。
加えて年度ごとに定められる「組指針」がある。
六代目体制発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離を置いている。「山口組を含めて、六代目の体制になってからは警察に速やかに入り、調べてもらいなさいという姿勢をとっている。昔はどったんばったんやったりして殴られたりもしたが」と記者の質問に答えており、警察との関わりに変化が見られる。いわゆる不良外国人との付き合いや、違法薬物の取り扱いなども公式に禁止している。
綱領と組指針
三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。また、年ごとの「組指針」も定められている。
六代目発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離をおいている。
歴代組長
- 初代(1915年~1925年):山口春吉
- 2代目(1925年~1942年):山口 登(春吉の長男)
- 3代目(1946年~1981年):田岡一雄
- 4代目(1984年~1985年):竹中正久(竹中組組長)
- 5代目(1989年~2005年):渡辺芳則(二代目山健組組長)
- 6代目(2005年~):司 忍(弘田組組長、二代目弘道会総裁)
歴代若頭
山口組若頭とは暴力団山口組の若頭で役職の中では組長に次ぐナンバー2である。
- 二代目時代
- 三代目時代
- 山田久一(1946年-)
- 安原政雄(-1955年)
- 地道行雄(1955年-1968年)※一時期、若頭の役を降りていた期間がある。
- 梶原清晴(1968年-1971年)
- 山本健一(1971年-1982年)
- 竹中正久(1982年-1984年)
- 四代目時代
- 五代目時代
- 六代目時代
六代目山口組
最高幹部
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
組長 | 司 忍(本名: 篠田健市) | ||
若頭(執行部) | 髙山清司(高山清司) | 二代目弘道会会長 | 名古屋市中村区 |
最高顧問(舎弟) | 野上哲男 | 二代目吉川組組長 | 大阪市淀川区 |
顧問(舎弟) | 石田章六(本名: 朴 泰俊) | 章友会会長 | 大阪市北区 |
顧問(舎弟) | 大石誉夫 | 大石組組長 | 岡山県岡山市 |
顧問(舎弟) | 尾崎彰春 | 心腹会会長 | 徳島県徳島市 |
総本部長(執行部) | 入江 禎 | 二代目宅見組組長 | 大阪市中央区 |
若頭補佐(執行部・大阪南ブロック長) | 橋本弘文(本名: 姜 弘文) | 極心連合会会長 | 大阪府東大阪市 |
若頭補佐(執行部・大阪北ブロック長) | 寺岡 修 | 俠友会(侠友会)会長 | 兵庫県洲本市 |
若頭補佐(執行部・九州ブロック長) | 青山千尋 | 二代目伊豆組組長 | 福岡市中央区 |
若頭補佐(執行部・関東ブロック長) | 鈴木一彦 | 旭導会会長 | 北海道旭川市 |
若頭補佐(執行部・阪神ブロック長) | 井上邦雄 | 四代目山健組組長 | 神戸市中央区 |
若頭補佐(執行部・中部ブロック長) | 正木年男 | 正木組組長 | 福井県敦賀市 |
若頭補佐(執行部・中国・四国ブロック長) | 池田孝志 | 池田組組長 | 岡山県岡山市 |
舎弟
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
英 五郎 | 英組組長 | 大阪市西淀川区 | |
玉地健治 | 玉地組組長 | 堺市堺区 | |
川合康允 | 川合組組長 | 岐阜県大垣市 |
幹部
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
大原宏延 | 大原組組長 | 大阪市生野区 | |
組長付 | 岸上剛史 | 十代目平井一家総裁 | 愛知県豊橋市 |
総本部長補佐 | 毛利善長(本名: 毛利時比呂) | 毛利組組長 | 大阪府吹田市 |
組長付 | 光安克明(本名: 伊豆克明) | 光生会会長 | 福岡市博多区 |
慶弔委員長 | 岡本久男 | 二代目松下組組長 | 神戸市中央区 |
総本部長補佐 | 剣 政和 | 二代目黒誠会会長 | 大阪市北区 |
若頭付 | 江口健治 | 二代目健心会会長 | 大阪市浪速区 |
若頭付 | 森尾卯太男 | 大同会会長 | 鳥取県米子市 |
藤井英治 | 五代目國粹会会長 | 東京都台東区 |
兵庫若中
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
中村天地朗(本名: 中村豊彦) | 二代目大平組組長 | 尼崎市 | |
細川幹雄 | 細川組組長 | 尼崎市 | |
柴田健吾 | 柴田会会長 | 加古川市 | |
総本部当番責任者 | 細見孝夫 | 二代目佐藤組組長 | 神戸市中央区 |
古川恵一 | 二代目古川組組長 | 尼崎市 | |
管 和巳 | 三代目真鍋組組長 | 尼崎市 | |
清水 武 | 二代目岸本組組長 | 神戸市中央区 | |
宮下和美 | 二代目西脇組組長 | 神戸市西区 |
大阪若中
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
奥浦清司 | 奥浦組組長 | 東大阪市 | |
平山桂次 | 三代目南一家会長 | 大阪市中央区 | |
浅井昌弘 | 浅井組組長 | 吹田市 | |
川口和慶 | 三代目小車誠会本家会長 | 大阪市西成区 | |
野村 孝 | 三代目一会会長 | 大阪市北区 | |
慶弔委員 | 髙木廣美(高木廣美) | 五代目早野会会長 | 大阪市浪速区 |
布川皓二 | 二代目中西組組長 | 大阪市中央区 | |
佐達秀正 | 三代目大野一家総長 | 大阪市港区 | |
総本部当番責任者 | 里 照仁 | 二代目中島組組長 | 大阪市淀川区 |
慶弔委員 | 髙野永次(高野永次) | 三代目織田組組長 | 大阪市中央区 |
奧村 修 | 二代目勝野組組長 | 大阪市西成区 | |
総本部当番責任者 | 竹森竜治 | 四代目澄田会会長 | 大阪市北区 |
酢ノ内祥吾 | 二代目東生会会長 | 大阪市淀川区 | |
亀井利臣 | 三代目松山組組長 | 東大阪市 | |
能塚 恵 | 三代目一心会会長 | 大阪市中央区 | |
秋良東力 | 秋良連合会会長 | 大阪市浪速区 | |
飯田倫功 | 倭和会会長 | 大阪市中央区 |
他都道府県若中
役職 | 氏名 | 二次団体 | 本部 |
---|---|---|---|
青野哲也 | 七代目一力一家総長 | 浜松市 | |
尾崎勝彦 | 尾崎組組長 | 徳島県徳島市 | |
山田忠利 | 二代目矢嶋組組長 | 愛媛県今治市 | |
根本辰男 | 二代目川内組組長 | 福井県あわら市 | |
北島 虎 | 二代目杉組組長 | 名古屋市中村区 | |
慶弔委員 | 金光哲男 | 金光会会長 | 福岡市博多区 |
正田 悟 | 二代目松山会会長 | 愛媛県松山市 | |
津田功一 | 二代目倉本組組長 | 奈良県奈良市 | |
貝本 健 | 貝本会会長 | 名古屋市中村区 | |
船木一治 | 三代目誠友会会長 | 札幌市中央区 | |
慶弔委員 | 篠原重則 | 二代目若林組組長 | 香川県高松市 |
高木康男 | 六代目清水一家総長 | 静岡市清水区 | |
総本部当番責任者 | 菱田達之 | 二代目愛桜会会長 | 三重県四日市市 |
総本部当番責任者 | 山本克博 | 五代目豪友会会長 | 高知県高知市 |
慶弔委員 | 田保伸一 | 二代目昭成会会長 | 石川県金沢市 |
掛野一彦 | 二代目近藤組組長 | 岐阜県岐阜市 | |
総本部当番責任者 | 茶谷政雄 | 茶谷政一家総長 | 札幌市白石区 |
慶弔委員 | 落合勇治 | 二代目小西一家総長 | 静岡市 |
木村阪喜 | 木村會会長 | 愛媛県松山市 | |
総本部当番責任者 | 髙橋久雄(高橋久雄) | 二代目地蔵組組長 | 京都市南区 |
総本部当番責任者 | 田中三次 | 三代目稲葉一家総長 | 熊本県熊本市 |
宮本浩二 | 四代目北岡会会長 | 熊本県鹿本郡 | |
中嶋初治 | 四代目小山組組長 | 和歌山県和歌山市 | |
藤原健治 | 三代目熊本組組長 | 岡山県玉野市 | |
清田健二 | 十代目瀬戸一家総裁 | 愛知県瀬戸市 | |
田堀 寛 | 二代目名神会会長 | 名古屋市 | |
津田 力 | 二代目倉心会会長 | 和歌山県和歌山市 | |
良知政志 | 良知組組長 | 静岡県富士宮市 | |
塚本修正 | 藤友会会長 | 静岡県富士宮市 | |
清田隆紀 | 清田会会長 | 長崎県長崎市 | |
一ノ宮敏彰 | 一道会会長 | 福岡市 | |
髙山誠賢(高山誠賢) | 淡海一家総長 | 滋賀県 | |
富田丈夫 | 國領屋一家総長 | 浜松市 | |
生野靖道 | 四代目石井一家総長 | 大分県別府市 | |
浜田重正 | 二代目浜尾組組長 | 横浜市中区 |
親戚・友好団体
- 三代目浅野組 - 組長・串田芳明は司 忍の代紋違いの舎弟。
- 松葉会 - 団体同士の親戚縁組。
- 双愛会 - 会長・塩島正則を司 忍が後見。
- 五代目共政会 - 会長・守屋 輯を司 忍が後見。
- 三代目福博会 - 会長・長岡寅夫を司 忍が後見。
- 東亜会 - 会長・金海芳雄を司 忍が後見。
- 三代目侠道会 - 会長・池澤 望と六代目山口組若頭補佐・寺岡 修が五分兄弟分。
- 二代目親和会 - 会長・吉良博文と六代目山口組幹部・光安克明が五分兄弟分。
- 七代目酒梅組 - 組長・金山耕三朗を六代目山口組若頭・髙山清司が後見。
- 六代目合田一家 - 総長・温井完治を髙山清司が後見。
- 六代目会津小鉄会 - 会長・馬場美次を髙山清司が後見。
- 稲川会 - 稲川会三代目山川一家総長・内堀和也と六代目山口組二代目弘道会二代目髙山組組長・竹内照明が五分兄弟分。
日本社会との関わり
山口組の収入源は賭博・麻薬などによるものであるが、それらの収入金額・売上高・資本金はトヨタ自動車を凌ぐ日本トップの企業であるという指摘がある[2]。菅沼光弘によれば、同和・部落・在日朝鮮人出身者が大半であり、兵庫県神戸市の税収を担い、中部国際空港の建設に関わったとされ、日本社会の中に深く根ざし、影響力を行使するものであるという指摘がなされた[3]。
また、元山口組顧問弁護士の山之内幸夫は『文芸春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた。
古歩道ベンジャミンによると「山口組には以前サハリンで命を狙われたことがあり、ABC放送のおはようコール収録後再び弘道会に命を狙われた」という[4]。
脚注
- ↑ 出典は、飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.43
- ↑ 米国がトヨタと弘道会(山口組)の「黒い関係」を追及(2006年5月号)
- ↑ 日本を知るには裏社会を知る必要がある 菅沼光弘 元公安調査庁調査第二部長講演(東京・外国特派員協会)
- ↑ 明日の朝、山口組の本部に言論による「道場破り」に行きます 06/17/2008
参考文献
- 飯干晃一『山口組三代目 野望篇』(徳間書店徳間文庫、1982年) - ISBN 4-19-597344-9
- 『山口組50の謎を追う』(洋泉社、2004年) - ISBN 4-89691-796-0
- 山平重樹『ヤクザ大全』(幻冬舎幻冬舎文庫、1999年) - ISBN 4-87728-826-0
- 実話時報(竹書房)
- 実話時代
- 実話時代 BLUE