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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>Kenokabeが考えるFXST</title>
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				<updated>2012-08-20T11:38:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: ウーソキカス（トーク）による第166431版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#redirect [[岡部健 (荒らし)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:あんだあすろう</title>
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				<updated>2012-08-20T11:37:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{保護依頼}}&lt;br /&gt;
{{注意|'''この記事はIPユーザーによって何度も荒らされております。'''記事が削除されたならリバートしてください。}}&lt;br /&gt;
[[画像:岡部健.jpg|thumb|自称敏腕FXシステムトレーダー（笑）のご尊顔]]&lt;br /&gt;
'''岡部 健'''（おかべ けん、[[1971年]][[9月22日]] - ）は[[日本]]の自称「敏腕FXシステムトレーダー」で[[兵庫県]]在住の高齢[[ニート]]。[[日本語版ウィキペディア]]の長期荒らしとして悪名高い。本名の読みはおかべたけし。日本語版ウィキペディアでは主にFXSTというアカウント名で知られるが、多数のソックパペットを操っている。 &lt;br /&gt;
      &lt;br /&gt;
==経歴== &lt;br /&gt;
[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれ育ち、[[東京]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]を経て再び神戸市に住む。カリフォルニア大学ロサンゼルス校（UCLA）でコンピュータサイエンスを学んだと自称するも、Google+の公式プロフィールではEngineeringやJourneyといった基本的な英単語の綴りを間違えるほどの無知を露呈している。&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
[[日本語版ウィキペディア]]には[[2006年]]から登場。一般記事を何も書かず、方針文書の整備など運営に関する議論にのみ参加。&lt;br /&gt;
ブロック破りなど、自分の規約違反を棚に上げて、偏執狂的な長広舌で延々と持説を展開した上、日本語版ウィキペディアのメーリングリストでも大演説をぶち上げ、自らが敵視する利用者を盛んに個人攻撃。持ち前の負けず嫌いな性格から、自説の欠点を指摘されても絶対に認めない態度に固執。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、百科事典プロジェクトに貢献せずコミュニティを疲弊させる、対話不能な利用者として無期限ブロックを受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後もウィキペディアへの妄執を捨てきれず、ありあまる時間を武器にして[[2ちゃんねる]]趣味板のウィキペディアスレッドに日夜出没し自らに好都合なウィキペディア世論の誘導形成を図っている他、複数のソックパペットを使って日本語版ウィキペディアに闖入を繰り返し、異常な大演説と個人攻撃を続行。中には岡部の策動に乗せられる愚かな利用者まで出現。こうしてコミュニティを混乱に陥れて喜んでいる愉快犯である。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
日本語版ウィキペディアで碌に記事を書かず運営に関する議論や政治ゲームに明け暮れている利用者を「自警」と呼び、猛烈に罵倒しているが、岡部自身が典型的な「自警」ではないかという指摘には見て見ぬふりを通している。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
かつて反ウィキペディアの同志として[[野田憲太郎]]とつるんでいたことがあり、共に犬並みの分別しか持たないところから野田憲太郎を'''[[野田犬]]'''、岡部健を'''岡部犬'''、両者を併せて反ウィキペディアの二大ケンと呼ぶ向きもあったが、この二匹はのち決裂して&amp;lt;S&amp;gt;犬猿&amp;lt;/S&amp;gt;犬犬の仲となった。現在、岡部は野田をキチガイと呼び、野田は岡部をウィキペディア管理者のスパイと呼んでいる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[2008年]]、『これが、唯一まともなFX本 98%のトレーダーが知らないFXの常識10』と題する自作のFX教材を「365日間無条件全額返金保証」との謳い文句により6万9000円で販売していたが、約束に反して迅速な返金に応じないとの苦情が殺到。岡部を[[詐欺罪]]で刑事告発する動きもあったが、彼自身は「私はきちんと要望があった分には返金しています」と言い訳している。本当に迅速な返金を行っていたかどうかは不明である。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[血液型]]O型。好きな音楽は[[サラ・ブライトマン]]と[[エニグマ]]、好きなギャンブルはFXマーケット。ブランド品が大好きで虚栄心が強く、好きなブランドはEMPORIO ARMANI、Armani JEANS、Town&amp;amp;Country、adidasである。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
==行動の特色== &lt;br /&gt;
*2chで名無しから正体を暴かれると「[[エスパー]]」と揶揄嘲笑する。それでいて2chで名無しから攻撃されると「俺を叩いているのは[[Wiki:User:Centaurus|ケンタウロス]]だ！」と思い込み、トンデモ「エスパー」ぶりを発揮する。&lt;br /&gt;
**2012年8月には2chを荒らし、f1.hyg1.eonet.ne.jp 規制された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2ch/1321911336/23 eonet.ne.jp 規制 No.5]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*記事を書けず運営に関する演説や政治ゲームに明け暮れる利用者を「自警」と呼んで罵倒する。それでいて岡部自身も記事は書けず、運営に関する演説や政治ゲームばかりやりたがる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*FXST系へのブロックを「私闘」と呼び、「FXST系ブロックに情熱を燃やすごく一部の利用者以外の利用者にとっては、どうでもよい」と言い張る。実は岡部自身のケンタウロスに対する闘争もケンタウロスに敵意を燃やす岡部以外の利用者にとっては全くどうでもよいものだが、それは「私闘」とは呼ばない。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
こうして見ると、岡部の行動を特徴付けるのは露骨なダブルスタンダードであることがわかる。よくよく見ると岡部が非難する相手と岡部自身は同じことをやっている場合が多いが、岡部は他人には「エスパー」「自警」「私闘」などの嘲笑的・否定的なラベリングを行い、岡部自身には決してこれを行わない。いわば「言ったもの勝ちの論理」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上をまとめると、岡部の人格と行動を支配しているのは「何をやっても俺様だけは別だ」という幼児並みの自己中心性と極めて幼稚なナルシシズムである。普通、人は社会人として揉まれる中でこういう幼児性から脱却するものだが、不幸にして岡部は「自称敏腕FXシステムトレーダー」であり、事実上のニート引きこもりである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この境遇が岡部の人間的発達を阻害し、彼を「40歳の幼児」にしてしまったことは想像に難くない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Twitterへ ==&lt;br /&gt;
Twitterに活動の場を移した岡部は、その特異なキャラクターでまたたくまに論争ばかりを引き起こすこととなる。この項目を野田が書いたとして、「最終警告」なる文章を掲示、(過去履歴を参照)そこには大阪の弁護士事務所の名や、弁護士個人の名前さえ出ていたのだが、Twitterで対立した相手にもまったく同じ手法を使用。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、「知り合い」だとしていたこの弁護士はTwitterを通して、岡部のことを「まったく知らない」とし、岡部は虚偽でもって対立者を脅迫していたことが明らかとなった。[http://cat.zero.ad.jp/tikuwa/sc/web/kenokabe.html]&lt;br /&gt;
この事実が明らかになると、岡部はそれまで使用していたKenOkabe2のアカウントを消去し、敵対者へメンションを送ることもなくなった。そして、以前使用していたKenOkabeアカウントを復活させるものの、弁護士の件はなんの説明もしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名言集==&lt;br /&gt;
*「ぶっ●●すぞ野田犬」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56749 原文では●●の部分で殺人予告を行なっている。脅迫罪にあたる、明白な犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
*「今後このページの編集も含め、俺に関わる事を一切やめろ。 このページもふくめ、今後、対応は大阪事務所の俺の担当弁護士である長澤さんにある程度一任している」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56901 長澤弁護士は「私は存じ上げません」「私には心当たりがありません」と否定している。これも脅迫罪と強要罪・弁護士法違反にあたる犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク== &lt;br /&gt;
*[http://twitter.com/#!/kenokabe Twitter]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/wiki/LTA:FXST Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/FXST] &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.blogspot.com/ 必勝法を目指して！]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10bookcom.seesaa.net/ これが、唯一　まともなFX 本　98%の　トレーダーが　知らない　FXの常識１０【無料立ち読み】GLOBEX 通貨先物 トレーダーが書いた本。２％のプロの流儀を伝授【365日間無条件全額返金保証】]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10book.blogspot.com/ 岡部　健 まともなFX本読者サポートブログ]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.iza.ne.jp/blog/ 為替システムトレード MT4 ハーモニックトレーディング]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A2KNM1BDUB22Q kenokabeさんの プロフィール] &lt;br /&gt;
*[http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an029909.html KenOKABEさん] &lt;br /&gt;
*[http://review.kakaku.com/review/usercategoryreview/?nickname=kenokabe&amp;amp;BBSTabNo=1 kenokabeさんのパソコンレビュー（1件）] &lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/user/kenokabe kenokabe さんのチャンネル] &lt;br /&gt;
*[http://knol.google.com/k/kenokabe/-/1fnl0s8z7vtgx/0# kenOKABE] &lt;br /&gt;
*[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/net/1343294990/ 【ブフォ】kenokabe岡部健毛の壁14【あり得ない】@2ch ネットウォッチ] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おかへけん}} &lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]] &lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアン]] &lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]] &lt;br /&gt;
[[Category:長期荒らしメンバー]] &lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]] &lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]] &lt;br /&gt;
[[Category:ニート]] &lt;br /&gt;
[[Category:兵庫県出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:Tomos</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: ページの白紙化&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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		<title>Kenokabeが考えるFXST</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: ウーソキカス（トーク）による第166129版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#redirect [[岡部健 (荒らし)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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				<updated>2012-08-19T19:28:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{保護依頼}}&lt;br /&gt;
{{注意|'''この記事はIPユーザーによって何度も荒らされております。'''記事が削除されたならリバートしてください。}}&lt;br /&gt;
[[画像:岡部健.jpg|thumb|自称敏腕FXシステムトレーダー（笑）のご尊顔]]&lt;br /&gt;
'''岡部 健'''（おかべ けん、[[1971年]][[9月22日]] - ）は[[日本]]の自称「敏腕FXシステムトレーダー」で[[兵庫県]]在住の高齢[[ニート]]。[[日本語版ウィキペディア]]の長期荒らしとして悪名高い。本名の読みはおかべたけし。日本語版ウィキペディアでは主にFXSTというアカウント名で知られるが、多数のソックパペットを操っている。 &lt;br /&gt;
      &lt;br /&gt;
==経歴== &lt;br /&gt;
[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれ育ち、[[東京]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]を経て再び神戸市に住む。カリフォルニア大学ロサンゼルス校（UCLA）でコンピュータサイエンスを学んだと自称するも、Google+の公式プロフィールではEngineeringやJourneyといった基本的な英単語の綴りを間違えるほどの無知を露呈している。&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
[[日本語版ウィキペディア]]には[[2006年]]から登場。一般記事を何も書かず、方針文書の整備など運営に関する議論にのみ参加。&lt;br /&gt;
ブロック破りなど、自分の規約違反を棚に上げて、偏執狂的な長広舌で延々と持説を展開した上、日本語版ウィキペディアのメーリングリストでも大演説をぶち上げ、自らが敵視する利用者を盛んに個人攻撃。持ち前の負けず嫌いな性格から、自説の欠点を指摘されても絶対に認めない態度に固執。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、百科事典プロジェクトに貢献せずコミュニティを疲弊させる、対話不能な利用者として無期限ブロックを受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後もウィキペディアへの妄執を捨てきれず、ありあまる時間を武器にして[[2ちゃんねる]]趣味板のウィキペディアスレッドに日夜出没し自らに好都合なウィキペディア世論の誘導形成を図っている他、複数のソックパペットを使って日本語版ウィキペディアに闖入を繰り返し、異常な大演説と個人攻撃を続行。中には岡部の策動に乗せられる愚かな利用者まで出現。こうしてコミュニティを混乱に陥れて喜んでいる愉快犯である。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
日本語版ウィキペディアで碌に記事を書かず運営に関する議論や政治ゲームに明け暮れている利用者を「自警」と呼び、猛烈に罵倒しているが、岡部自身が典型的な「自警」ではないかという指摘には見て見ぬふりを通している。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
かつて反ウィキペディアの同志として[[野田憲太郎]]とつるんでいたことがあり、共に犬並みの分別しか持たないところから野田憲太郎を'''[[野田犬]]'''、岡部健を'''岡部犬'''、両者を併せて反ウィキペディアの二大ケンと呼ぶ向きもあったが、この二匹はのち決裂して&amp;lt;S&amp;gt;犬猿&amp;lt;/S&amp;gt;犬犬の仲となった。現在、岡部は野田をキチガイと呼び、野田は岡部をウィキペディア管理者のスパイと呼んでいる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[2008年]]、『これが、唯一まともなFX本 98%のトレーダーが知らないFXの常識10』と題する自作のFX教材を「365日間無条件全額返金保証」との謳い文句により6万9000円で販売していたが、約束に反して迅速な返金に応じないとの苦情が殺到。岡部を[[詐欺罪]]で刑事告発する動きもあったが、彼自身は「私はきちんと要望があった分には返金しています」と言い訳している。本当に迅速な返金を行っていたかどうかは不明である。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[血液型]]O型。好きな音楽は[[サラ・ブライトマン]]と[[エニグマ]]、好きなギャンブルはFXマーケット。ブランド品が大好きで虚栄心が強く、好きなブランドはEMPORIO ARMANI、Armani JEANS、Town&amp;amp;Country、adidasである。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
==行動の特色== &lt;br /&gt;
*2chで名無しから正体を暴かれると「[[エスパー]]」と揶揄嘲笑する。それでいて2chで名無しから攻撃されると「俺を叩いているのは[[Wiki:User:Centaurus|ケンタウロス]]だ！」と思い込み、トンデモ「エスパー」ぶりを発揮する。&lt;br /&gt;
**2012年8月には2chを荒らし、f1.hyg1.eonet.ne.jp 規制された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2ch/1321911336/23 eonet.ne.jp 規制 No.5]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*記事を書けず運営に関する演説や政治ゲームに明け暮れる利用者を「自警」と呼んで罵倒する。それでいて岡部自身も記事は書けず、運営に関する演説や政治ゲームばかりやりたがる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*FXST系へのブロックを「私闘」と呼び、「FXST系ブロックに情熱を燃やすごく一部の利用者以外の利用者にとっては、どうでもよい」と言い張る。実は岡部自身のケンタウロスに対する闘争もケンタウロスに敵意を燃やす岡部以外の利用者にとっては全くどうでもよいものだが、それは「私闘」とは呼ばない。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
こうして見ると、岡部の行動を特徴付けるのは露骨なダブルスタンダードであることがわかる。よくよく見ると岡部が非難する相手と岡部自身は同じことをやっている場合が多いが、岡部は他人には「エスパー」「自警」「私闘」などの嘲笑的・否定的なラベリングを行い、岡部自身には決してこれを行わない。いわば「言ったもの勝ちの論理」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上をまとめると、岡部の人格と行動を支配しているのは「何をやっても俺様だけは別だ」という幼児並みの自己中心性と極めて幼稚なナルシシズムである。普通、人は社会人として揉まれる中でこういう幼児性から脱却するものだが、不幸にして岡部は「自称敏腕FXシステムトレーダー」であり、事実上のニート引きこもりである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この境遇が岡部の人間的発達を阻害し、彼を「40歳の幼児」にしてしまったことは想像に難くない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Twitterへ ==&lt;br /&gt;
Twitterに活動の場を移した岡部は、その特異なキャラクターでまたたくまに論争ばかりを引き起こすこととなる。この項目を野田が書いたとして、「最終警告」なる文章を掲示、(過去履歴を参照)そこには大阪の弁護士事務所の名や、弁護士個人の名前さえ出ていたのだが、Twitterで対立した相手にもまったく同じ手法を使用。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、「知り合い」だとしていたこの弁護士はTwitterを通して、岡部のことを「まったく知らない」とし、岡部は虚偽でもって対立者を脅迫していたことが明らかとなった。[http://cat.zero.ad.jp/tikuwa/sc/web/kenokabe.html]&lt;br /&gt;
この事実が明らかになると、岡部はそれまで使用していたKenOkabe2のアカウントを消去し、敵対者へメンションを送ることもなくなった。そして、以前使用していたKenOkabeアカウントを復活させるものの、弁護士の件はなんの説明もしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名言集==&lt;br /&gt;
*「ぶっ●●すぞ野田犬」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56749 原文では●●の部分で殺人予告を行なっている。脅迫罪にあたる、明白な犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
*「今後このページの編集も含め、俺に関わる事を一切やめろ。 このページもふくめ、今後、対応は大阪事務所の俺の担当弁護士である長澤さんにある程度一任している」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56901 長澤弁護士は「私は存じ上げません」「私には心当たりがありません」と否定している。これも脅迫罪と強要罪・弁護士法違反にあたる犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク== &lt;br /&gt;
*[http://twitter.com/#!/kenokabe Twitter]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/wiki/LTA:FXST Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/FXST] &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.blogspot.com/ 必勝法を目指して！]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10bookcom.seesaa.net/ これが、唯一　まともなFX 本　98%の　トレーダーが　知らない　FXの常識１０【無料立ち読み】GLOBEX 通貨先物 トレーダーが書いた本。２％のプロの流儀を伝授【365日間無条件全額返金保証】]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10book.blogspot.com/ 岡部　健 まともなFX本読者サポートブログ]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.iza.ne.jp/blog/ 為替システムトレード MT4 ハーモニックトレーディング]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A2KNM1BDUB22Q kenokabeさんの プロフィール] &lt;br /&gt;
*[http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an029909.html KenOKABEさん] &lt;br /&gt;
*[http://review.kakaku.com/review/usercategoryreview/?nickname=kenokabe&amp;amp;BBSTabNo=1 kenokabeさんのパソコンレビュー（1件）] &lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/user/kenokabe kenokabe さんのチャンネル] &lt;br /&gt;
*[http://knol.google.com/k/kenokabe/-/1fnl0s8z7vtgx/0# kenOKABE] &lt;br /&gt;
*[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/net/1343294990/ 【ブフォ】kenokabe岡部健毛の壁14【あり得ない】@2ch ネットウォッチ] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おかへけん}} &lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]] &lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアン]] &lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]] &lt;br /&gt;
[[Category:長期荒らしメンバー]] &lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]] &lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]] &lt;br /&gt;
[[Category:ニート]] &lt;br /&gt;
[[Category:兵庫県出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5_(FXST)&amp;diff=166039</id>
		<title>岡部健 (FXST)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5_(FXST)&amp;diff=166039"/>
				<updated>2012-08-16T17:23:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 岡部健 (荒らし)へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[岡部健 (荒らし)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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		<title>Kenokabeが考えるFXST</title>
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				<updated>2012-08-16T17:22:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 岡部健 (荒らし)へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#redirect [[岡部健 (荒らし)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>企業舎弟就職ランキング</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BC%81%E6%A5%AD%E8%88%8E%E5%BC%9F%E5%B0%B1%E8%81%B7%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&amp;diff=166037"/>
				<updated>2012-08-16T17:20:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{保護依頼}}&lt;br /&gt;
{{注意|'''この記事はIPユーザーによって何度も荒らされております。'''記事が削除されたならリバートしてください。}}&lt;br /&gt;
[[画像:岡部健.jpg|thumb|自称敏腕FXシステムトレーダー（笑）のご尊顔]]&lt;br /&gt;
'''岡部 健'''（おかべ けん、[[1971年]][[9月22日]] - ）は[[日本]]の自称「敏腕FXシステムトレーダー」で[[兵庫県]]在住の高齢[[ニート]]。[[日本語版ウィキペディア]]の長期荒らしとして悪名高い。本名の読みはおかべたけし。日本語版ウィキペディアでは主にFXSTというアカウント名で知られるが、多数のソックパペットを操っている。 &lt;br /&gt;
      &lt;br /&gt;
==経歴== &lt;br /&gt;
[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれ育ち、[[東京]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]を経て再び神戸市に住む。カリフォルニア大学ロサンゼルス校（UCLA）でコンピュータサイエンスを学んだと自称するも、Google+の公式プロフィールではEngineeringやJourneyといった基本的な英単語の綴りを間違えるほどの無知を露呈している。&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
[[日本語版ウィキペディア]]には[[2006年]]から登場。一般記事を何も書かず、方針文書の整備など運営に関する議論にのみ参加。&lt;br /&gt;
ブロック破りなど、自分の規約違反を棚に上げて、偏執狂的な長広舌で延々と持説を展開した上、日本語版ウィキペディアのメーリングリストでも大演説をぶち上げ、自らが敵視する利用者を盛んに個人攻撃。持ち前の負けず嫌いな性格から、自説の欠点を指摘されても絶対に認めない態度に固執。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、百科事典プロジェクトに貢献せずコミュニティを疲弊させる、対話不能な利用者として無期限ブロックを受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後もウィキペディアへの妄執を捨てきれず、ありあまる時間を武器にして[[2ちゃんねる]]趣味板のウィキペディアスレッドに日夜出没し自らに好都合なウィキペディア世論の誘導形成を図っている他、複数のソックパペットを使って日本語版ウィキペディアに闖入を繰り返し、異常な大演説と個人攻撃を続行。中には岡部の策動に乗せられる愚かな利用者まで出現。こうしてコミュニティを混乱に陥れて喜んでいる愉快犯である。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
日本語版ウィキペディアで碌に記事を書かず運営に関する議論や政治ゲームに明け暮れている利用者を「自警」と呼び、猛烈に罵倒しているが、岡部自身が典型的な「自警」ではないかという指摘には見て見ぬふりを通している。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
かつて反ウィキペディアの同志として[[野田憲太郎]]とつるんでいたことがあり、共に犬並みの分別しか持たないところから野田憲太郎を'''[[野田犬]]'''、岡部健を'''岡部犬'''、両者を併せて反ウィキペディアの二大ケンと呼ぶ向きもあったが、この二匹はのち決裂して&amp;lt;S&amp;gt;犬猿&amp;lt;/S&amp;gt;犬犬の仲となった。現在、岡部は野田をキチガイと呼び、野田は岡部をウィキペディア管理者のスパイと呼んでいる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[2008年]]、『これが、唯一まともなFX本 98%のトレーダーが知らないFXの常識10』と題する自作のFX教材を「365日間無条件全額返金保証」との謳い文句により6万9000円で販売していたが、約束に反して迅速な返金に応じないとの苦情が殺到。岡部を[[詐欺罪]]で刑事告発する動きもあったが、彼自身は「私はきちんと要望があった分には返金しています」と言い訳している。本当に迅速な返金を行っていたかどうかは不明である。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
[[血液型]]O型。好きな音楽は[[サラ・ブライトマン]]と[[エニグマ]]、好きなギャンブルはFXマーケット。ブランド品が大好きで虚栄心が強く、好きなブランドはEMPORIO ARMANI、Armani JEANS、Town&amp;amp;Country、adidasである。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
==行動の特色== &lt;br /&gt;
*2chで名無しから正体を暴かれると「[[エスパー]]」と揶揄嘲笑する。それでいて2chで名無しから攻撃されると「俺を叩いているのは[[Wiki:User:Centaurus|ケンタウロス]]だ！」と思い込み、トンデモ「エスパー」ぶりを発揮する。&lt;br /&gt;
**2012年8月には2chを荒らし、f1.hyg1.eonet.ne.jp 規制された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2ch/1321911336/23 eonet.ne.jp 規制 No.5]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*記事を書けず運営に関する演説や政治ゲームに明け暮れる利用者を「自警」と呼んで罵倒する。それでいて岡部自身も記事は書けず、運営に関する演説や政治ゲームばかりやりたがる。 &lt;br /&gt;
  &lt;br /&gt;
*FXST系へのブロックを「私闘」と呼び、「FXST系ブロックに情熱を燃やすごく一部の利用者以外の利用者にとっては、どうでもよい」と言い張る。実は岡部自身のケンタウロスに対する闘争もケンタウロスに敵意を燃やす岡部以外の利用者にとっては全くどうでもよいものだが、それは「私闘」とは呼ばない。 &lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
こうして見ると、岡部の行動を特徴付けるのは露骨なダブルスタンダードであることがわかる。よくよく見ると岡部が非難する相手と岡部自身は同じことをやっている場合が多いが、岡部は他人には「エスパー」「自警」「私闘」などの嘲笑的・否定的なラベリングを行い、岡部自身には決してこれを行わない。いわば「言ったもの勝ちの論理」である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上をまとめると、岡部の人格と行動を支配しているのは「何をやっても俺様だけは別だ」という幼児並みの自己中心性と極めて幼稚なナルシシズムである。普通、人は社会人として揉まれる中でこういう幼児性から脱却するものだが、不幸にして岡部は「自称敏腕FXシステムトレーダー」であり、事実上のニート引きこもりである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この境遇が岡部の人間的発達を阻害し、彼を「40歳の幼児」にしてしまったことは想像に難くない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Twitterへ ==&lt;br /&gt;
Twitterに活動の場を移した岡部は、その特異なキャラクターでまたたくまに論争ばかりを引き起こすこととなる。この項目を野田が書いたとして、「最終警告」なる文章を掲示、(過去履歴を参照)そこには大阪の弁護士事務所の名や、弁護士個人の名前さえ出ていたのだが、Twitterで対立した相手にもまったく同じ手法を使用。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、「知り合い」だとしていたこの弁護士はTwitterを通して、岡部のことを「まったく知らない」とし、岡部は虚偽でもって対立者を脅迫していたことが明らかとなった。[http://cat.zero.ad.jp/tikuwa/sc/web/kenokabe.html]&lt;br /&gt;
この事実が明らかになると、岡部はそれまで使用していたKenOkabe2のアカウントを消去し、敵対者へメンションを送ることもなくなった。そして、以前使用していたKenOkabeアカウントを復活させるものの、弁護士の件はなんの説明もしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名言集==&lt;br /&gt;
*「ぶっ●●すぞ野田犬」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56749 原文では●●の部分で殺人予告を行なっている。脅迫罪にあたる、明白な犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
*「今後このページの編集も含め、俺に関わる事を一切やめろ。 このページもふくめ、今後、対応は大阪事務所の俺の担当弁護士である長澤さんにある程度一任している」（[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:FXST&amp;amp;oldid=56901 長澤弁護士は「私は存じ上げません」「私には心当たりがありません」と否定している。これも脅迫罪と強要罪・弁護士法違反にあたる犯罪行為である]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク== &lt;br /&gt;
*[http://twitter.com/#!/kenokabe Twitter]&lt;br /&gt;
*[http://ja.wikipedia.org/wiki/LTA:FXST Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/FXST] &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.blogspot.com/ 必勝法を目指して！]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10bookcom.seesaa.net/ これが、唯一　まともなFX 本　98%の　トレーダーが　知らない　FXの常識１０【無料立ち読み】GLOBEX 通貨先物 トレーダーが書いた本。２％のプロの流儀を伝授【365日間無条件全額返金保証】]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fx10book.blogspot.com/ 岡部　健 まともなFX本読者サポートブログ]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://fxsystemtrader.iza.ne.jp/blog/ 為替システムトレード MT4 ハーモニックトレーディング]（当人のブログ） &lt;br /&gt;
*[http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A2KNM1BDUB22Q kenokabeさんの プロフィール] &lt;br /&gt;
*[http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an029909.html KenOKABEさん] &lt;br /&gt;
*[http://review.kakaku.com/review/usercategoryreview/?nickname=kenokabe&amp;amp;BBSTabNo=1 kenokabeさんのパソコンレビュー（1件）] &lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/user/kenokabe kenokabe さんのチャンネル] &lt;br /&gt;
*[http://knol.google.com/k/kenokabe/-/1fnl0s8z7vtgx/0# kenOKABE] &lt;br /&gt;
*[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/net/1343294990/ 【ブフォ】kenokabe岡部健毛の壁14【あり得ない】@2ch ネットウォッチ] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おかへけん}} &lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]] &lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアン]] &lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]] &lt;br /&gt;
[[Category:長期荒らしメンバー]] &lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]] &lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]] &lt;br /&gt;
[[Category:ニート]] &lt;br /&gt;
[[Category:兵庫県出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BC%81%E6%A5%AD%E8%88%8E%E5%BC%9F%E5%B0%B1%E8%81%B7%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&amp;diff=166036</id>
		<title>企業舎弟就職ランキング</title>
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				<updated>2012-08-16T17:15:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 岡部健 (荒らし)を岡部健 (FXST)へ移動: 移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[岡部健 (FXST)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>岡部健 (FXST)</title>
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				<updated>2012-08-16T17:15:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 岡部健 (荒らし)を岡部健 (FXST)へ移動: 移動&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[リア充画像]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B8%B0%E5%AE%85%E9%83%A8&amp;diff=163614</id>
		<title>帰宅部</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B8%B0%E5%AE%85%E9%83%A8&amp;diff=163614"/>
				<updated>2012-07-17T01:37:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:帰宅部　1.jpg|thumb||300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''帰宅部'''（きたくぶ）とは、[[小学校]]・[[中学校]]・[[高等学校]]など[[部活動]]が存在する[[学校]]で、どの部にも所属していない[[生徒]]、またはその状態のことを指す[[俗語]]である。広義では[[仮入部]]の生徒に対しても使われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[放課後]]に部活動をしないまま帰宅するために帰宅部と称されるが、放課後すぐに学外へ出る生徒もいれば、暫くは学内に留まり友人と遊んだり図書館などで時を過ごしたりする者もいる。前者の傾向が強い生徒のことを「帰宅部エース」や「帰宅部部長」（きたくぶぶちょう）などと呼んだりするが、学外で部活動に準ずる活動をしている生徒よりも、寄り道をせず直接帰宅する生徒が特にそう呼ばれる事が多い。また、コミュニケーション不足（一匹狼）や差別的な意味合いで使われることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
部活動に参加せず帰宅する理由としては、成績が悪く部活動に行くよりも勉強することの方が大事だとされる生徒や、[[住宅|自宅]]が学校から離れており下校するのに時間が掛かる等と言ったものが挙げられる。[[高等学校]]では、[[アルバイト|働きに行く]]、[[学習塾|塾]]や進学[[予備校]]に通うため、部活動をしている時間が無いと言った理由も挙げられる。しかし、ただ単に部活動をやりたくないなどといった理由で帰宅部となる生徒も多いため、たとえ前述のような正当な理由があって帰宅部にならざるを得なかった生徒も、[[教師]]に軽視されがちな部分がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰宅部は基本的に[[架空]]の部活動・概念に過ぎず、実際には存在しないことが多いが、一部の部活動への所属が強制された学校などでは帰宅部が実際に作られた例もある。この場合は帰宅すること自体が部活動となるため、部室も予算もない名目のみの存在となる事が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[学園漫画]]などの[[フィクション]]作品では、帰宅部を[[ネタ]]として扱うことが多い。特にギャグ作品にその傾向が強く、使用例は枚挙に遑がない。この用例では、[[定期試験]]前にある部活動禁止期間中は帰宅が禁止されてしまう、といったネタにまで発展する事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 帰宅部ネタが登場した作品 ==&lt;br /&gt;
*[[かってに改蔵]] - 寄り道せずに帰宅できるかを競う「帰宅部」と言う部が登場。&lt;br /&gt;
*[[私立T女子学園]]&lt;br /&gt;
*[[ショートカッツ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[クラブ活動]]&lt;br /&gt;
* [[幽霊部員]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 帰宅部のポスター画像 ==&lt;br /&gt;
[[Image:帰宅部　2.jpg|300px]][[Image:帰宅部　3.jpg|300px]][[Image:帰宅部　4.jpg|300px]][[Image:帰宅部　5.jpg|300px]][[Image:帰宅部　6.jpg|300px]][[Image:帰宅部　7.jpg|300px]][[Image:帰宅部　8.jpg|300px]][[Image:帰宅部　9.jpg|300px]][[Image:帰宅部　10.jpg|300px]][[Image:帰宅部　11.jpg|300px]][[Image:帰宅部　12.jpg|300px]][[Image:帰宅部　13.jpg|300px]][[Image:帰宅部　14.jpg|300px]][[Image:帰宅部　15.jpg|300px]][[Image:帰宅部　16.jpg|300px]][[Image:帰宅部　17.jpg|300px]][[Image:帰宅部　18.jpg|300px]][[Image:帰宅部　19.jpg|300px]][[Image:帰宅部　20.jpg|300px]][[Image:帰宅部　21.jpg|300px]][[Image:帰宅部　22.jpg|300px]][[Image:帰宅部　23.jpg|300px]][[Image:帰宅部　24.jpg|300px]][[Image:帰宅部　25.jpg|300px]][[Image:帰宅部　26.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きたくふ}}&lt;br /&gt;
[[category:学校文化]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163338</id>
		<title>坂井三郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163338"/>
				<updated>2012-07-11T08:37:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:Sakai as young pilot.jpg|400px|thumb|1939年、漢口基地での坂井三郎]]&lt;br /&gt;
'''坂井 三郎'''（'''さかい さぶろう'''、[[1916年]]（大正5年）[[8月26日]] - [[2000年]]（平成12年）[[9月22日]]）は、[[大日本帝国海軍]]の[[戦闘機]]搭乗員（[[パイロット]]）。[[太平洋戦争]]終戦時は[[海軍少尉]]、最終階級は[[海軍中尉]]。著書『[[大空のサムライ]]』がベストセラーになったため、日本で最も有名な[[エース・パイロット]]として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
=== 海軍入隊 ===&lt;br /&gt;
[[佐賀県]][[佐賀郡]]西与賀村大字厘外1523番地（現在の[[佐賀市]]西与賀町大字厘外）に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる（名前は祖父の勝三郎に由来している）。坂井が小学校6年生の[[1928年]]（昭和3年）、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。[[青山学院]]中等部に進学したが、素行不良を理由に退学処分となったため帰郷し、約2年間農作業に従事した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、[[騎手]]になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で[[佐世保海軍航空隊|佐世保航空隊]]の平山五郎[[海軍大尉]]操縦の[[飛行艇]]が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れ、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが[[1933年]]（昭和8年）5月1日、[[佐世保市|佐世保]][[海兵団]]へ入団した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月1日には、[[戦艦]][[霧島 (戦艦)|霧島]]に配属され、15センチ副砲の砲手となった。[[1935年]]（昭和10年）5月11日、横須賀の[[海軍砲術学校]]に入校。翌[[1936年]]（昭和11年）、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に[[戦艦]][[榛名 (戦艦)|榛名]]に配属。[[大艦巨砲主義]]全盛の当時、花形とされた戦艦の[[主砲]]の二番砲塔の砲手に任ぜられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。[[1937年]]（昭和12年）3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では。恩賜の[[銀時計]]を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日中戦争 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Cockpit A5M.jpg|250px|thumb|[[九六式艦上戦闘機]]に乗った坂井（1939年）]]&lt;br /&gt;
坂井は[[佐伯海軍航空隊|佐伯航空隊]]での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、[[1938年]]（昭和13年）4月9日、[[大村海軍航空隊|大村航空隊]]に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して[[台湾]]の[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]に異動後、同年9月11日には、[[中国大陸]]の[[九江市|九江]]に進出していた歴戦の航空隊である[[第一二航空隊]]に配属となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年）10月5日の[[漢口]]空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀[[大尉]]の三番機として[[九六式艦上戦闘機]]に搭乗し、初出撃ながら[[中華民国国軍]]の[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜。翌[[1939年]]（昭和14年）5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの[[南昌市|南昌]]基地攻撃に参加し、6月には[[占領]]された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB（エスベー）爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で[[宜昌市|宜昌]]上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌[[1940年]]（昭和15年）5月には、[[運城市|運城]]基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年）6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの[[零式艦上戦闘機]]（零戦）と初めて出会う。同年10月17日に再び[[高雄海軍航空隊]]に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、[[名古屋飛行場|名古屋]]で零戦を受け取って、[[鹿屋航空基地|鹿屋基地]]経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌[[1941年]]（昭和16年）春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、[[海南島]]の[[三亜市|三亜]][[三亜鳳凰国際空港|基地]]に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の[[仏印進駐|北部仏印進駐]]に呼応する形で、[[ハノイ]][[ノイバイ国際空港|飛行場]]にも進出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）4月10日、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。[[武漢王家墩飛行場|漢口基地]]から華中での作戦に従事し、5月3日には[[重慶市|重慶]]攻撃に出撃した。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の[[成都]]攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、[[一式陸上攻撃機]]7機による成都黎明空襲（攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から[[宜昌市|宜昌]]飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流）で、中華民国国軍の[[I-15 (航空機)|I-15]]戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となった。8月21日には、再度の成都攻撃で、[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[ソビエト連邦|ソ連]]からの[[援蒋ルート]]（北方ルート）を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、[[運城市|運城]]基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として[[蘭州]]基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の[[西寧市|西寧]]への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された[[岷山山脈]]の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは[[日中戦争]]における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[1941年]]（昭和16年）10月に台湾の[[台南]]に新設された[[台南海軍航空隊|台南航空隊]]（以下、台南空と略）に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で後に「ラバウルの貴公子」とも称される[[笹井醇一]]中尉らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 開戦 ===&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）12月8日の開戦時は[[フィリピン]]に駐留する[[アメリカ陸軍]]航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後は[[ラバウル]]、[[ラエ]]に移動、ニューギニアやソロモンに展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]（米豪軍）と激戦を繰り広げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の[[1942年]]（昭和17年）5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった[[西沢広義]]と[[太田敏夫]]の3人により、無断で[[ポートモレスビー]]のセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して[[笹井醇一]]から厳重な注意を受けたとする逸話を自著に記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 負傷と復帰 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai wounded.jpg|233px|thumb|負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真]]&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ･“パグ”･サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。&lt;br /&gt;
そののち[[ガダルカナル島]]の上空において、坂井は[[SBD (航空機)|SBD]]ドーントレスの編隊を''「油断して直線飛行している」[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット]]の編隊''と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し（そのため左腕が麻痺状態にあった）計器すら満足に見えないという重傷を負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させた。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした&amp;lt;ref&amp;gt;まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、[[ヤシ|椰子]]の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。また、この時の飛行を重巡洋艦「鳥海」から目撃した[[丹羽文雄]]は、著書「海戦」の中で、びっくりするほど低空を飛行していると記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後[[内地]]に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の[[第251海軍航空隊|251空]]（台南空を改称）に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には[[小園安名]]中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。[[1943年]]（昭和18年）2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で[[教官]]の任に就く、[[1943年]]（昭和18年）4月大村航空隊に異動、[[1944年]]（昭和19年）4月13日、[[横須賀海軍航空隊]]に配属された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 硫黄島 ===&lt;br /&gt;
戦況の悪化、[[絶対国防圏]]の重要な一角であった[[サイパン島]]への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、[[1944年]]（昭和19年）6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもあった中島正少佐の指揮下、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった坂井は、硫黄島防衛に加え、[[マリアナ沖海戦]]に勝利したばかりで、[[マリアナ諸島]]沖に展開の米海軍[[機動部隊]]（[[第38任務部隊|第58任務部隊）]]を攻撃することも視野に入れつつ、[[三沢基地]]で練成中だった[[第二五二海軍航空隊|第252航空隊]]他と共に、零戦の他に[[艦上攻撃機]][[天山_(航空機)|天山]]、[[艦上爆撃機]][[彗星_(航空機)|彗星]]他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊の[[グラマン]][[F6F_(航空機)|F6F ヘルキャット]]戦闘機約70機が、[[航空母艦|空母]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]、空母[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]] 、空母[[バターン (空母)|バターン]]を発艦して硫黄島に来襲。これを[[レーダー]]探知して、横須賀空の25機、そして252空と[[第三〇一海軍航空隊|301空]]（戦闘601飛行隊）の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がった。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという、ガダルカナル時と同様のミスをおかし、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった[[天山_(航空機)|天山]]8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は[[武藤金義]]飛曹長であった。&lt;br /&gt;
出撃前、横須賀空司令の[[三浦鑑三]]大佐より、｢本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。｣との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空[[特別攻撃隊|特攻]]命令が下されることになる。&lt;br /&gt;
攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。&lt;br /&gt;
坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、｢御苦労だった。詳しくは明日聞こう｣の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機（内、横空零戦隊は9機）となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還：零戦10機　天山艦攻7機（内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機）。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではＦ6Ｆ1機『撃破』とされている。&lt;br /&gt;
この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。&lt;br /&gt;
山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
硫黄島から帰還後の[[1944年]]（昭和19年）8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「[[紫電改]]」を装備する[[第343海軍航空隊|第三四三航空隊]]（2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空）戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。[[1945年]]（昭和20年）7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の[[武藤金義]]少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍の[[エーリヒ・ハルトマン]]も1機撃墜（搭乗員は生還）されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦最後の空戦 ===&lt;br /&gt;
[[ポツダム宣言]]受諾後の[[1945年]]（昭和20年）[[8月17日]]、アメリカ軍をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による占領下の[[沖縄県|沖縄]]の基地から日本本土[[偵察]]のために飛来した[[B-32_(航空機)|B-32]]ドミネーター2機と日本海軍機が[[房総半島]]から[[伊豆諸島]]の上空で交戦した[[第二次世界大戦]]最後の[[空中戦]]に坂井も参加している。この迎撃には、紫電改の他に零戦が準備されたが、坂井は紫電改には目もくれずに[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦52型]]で迎撃に上がった。また、この時に飛来した機を日本側は新型のB-32であるとは知らず、判明したのは戦後である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた（この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の[[戦死]]者）。戦後、坂井はこの件で[[戦争犯罪人]]として訴追されることを懸念していたようだが、18日の時点では日本は正式に[[降伏]]していなかったこと（降伏文書調印は[[9月2日]]）、[[爆撃機]]への迎撃であり[[正当防衛]]といえること等から[[国際法]]上問題無しとされ、この件で戦後連合国軍より何ら追及されることはなかった。余談だが、この交戦に参加した[[小町定]]は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をしている為、零戦で離陸した坂井は攻撃が出来なかったと言う説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後 ===&lt;br /&gt;
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる[[戦記]]『[[大空のサムライ]]』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の欧米では、戦争中の[[プロパガンダ]]の影響もあって、[[日本人]]に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、[[イラク治安部隊#空軍|イラク空軍]]では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞　2004年8月17日付国際面記事&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。[[P-51 (航空機)|P-51ムスタング]]を操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を[[藤岡弘]]が演じ企画を映画[[岸壁の母]]の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を[[東宝]]が担当、[[1976年]]（昭和51年）に映画化された（[[丸山誠治]]監督作品。[[特撮]]監督は[[川北紘一]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]（平成12年）9月22日、[[厚木基地]]で催された[[アメリカ海軍]]西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 坂井の戦術 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Lentaja.jpg|233px|thumb|日中戦争での坂井]]&lt;br /&gt;
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から[[先制攻撃]]をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作『坂井三郎空戦記録』には、昼間の星の見方が詳しく述懐されている他、坂井は自らの視力向上のため、昼間に星を見つける訓練を日々繰り返していた旨も記述されている。星が見えたという真偽は定かではないが、視力2.5～3以上の視力を有する人間は昼間に一等星などの強い明るさを持つ星なら見ることが可能であり、また現代では40cm反射望遠鏡などの高倍率の望遠鏡を使用すれば、誰でも昼間星座観察などが可能である。&amp;lt;/ref&amp;gt;」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|title=大空のサムライ　坂井三郎氏　零戦を語る |url=http://www.youtube.com/watch?v=TRMcvq6DfKI&amp;amp;feature=player_embedded#at=19|accessdate=2011-6-1|publisher=Youtube}}&amp;lt;/ref&amp;gt;の割合で索敵するとも言う（坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの[[西沢広義]]は水平線より下の索敵を得意としていたらしい）。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト（巴戦）より[[一撃離脱戦法|一撃離脱]]の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている（そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが）。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。&lt;br /&gt;
加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、（スコアでは坂井に及ばない事から）恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機（小隊の2・3番機）の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた（そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「（空戦では）撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し（1000馬力は1000馬力しか出ない）、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[特別攻撃隊|特攻作戦]]については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと[[大本営]]は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[加藤寛一郎]]によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作の評価 ==&lt;br /&gt;
『大空のサムライ』は[[ゴーストライター]]（当時の光人社社長）による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。&lt;br /&gt;
ちなみに光人社社長（当時。高城肇）との共著は「続々大空のサムライ　撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴーストライターの真意 ===&lt;br /&gt;
「零戦の会」の副会長「[[神立尚紀]]」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「[[武道通信]]」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「[[渡辺洋二]]」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、[[東京大学]]名誉教授の[[加藤寛一郎]]の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに？」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している（加藤寛一郎　『飛行の秘術のはなし』　講談社〈文庫〉、1999年、178頁）。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人の[[ノンフィクション]]作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった（坂井の作品には多くの[[フィクション]]が含まれている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 士官との対立 ===&lt;br /&gt;
著作内には、大東亜戦争における日本海軍上層部の杜撰な作戦計画や戦況判断の甘さに対する批判も多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、戦時中、一戦闘機搭乗員にすぎなかった坂井は海軍上層部の行動を知りうる立場には当然無く、後にアメリカの軍人から「士官が集まる場所は日時が大体決まっていたから、そこへ間諜を送って情報を得ていた」と知り愕然となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、当時の日本海軍における、[[士官]]の[[エリート]]意識による[[下士官]]への傲慢な態度や、士官と下士官との間での待遇の差に対する批判も多くの著作内でなされた。それゆえ、戦後は[[海軍兵学校]]出身の元搭乗員を中心として、多くの敵を作ったのも事実である。実際、旧海軍人のパーティに招かれた際「海軍は本当に良いところでしたね」と話しかけてきた元海軍士官に「とんでもない！あんな所は二度とご免です」と回答したと生前語っており。朋輩の兵曹が大尉になじられたのを発端に大尉の殺害計画を練り、衛兵伍長に諭されて未遂に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは坂井が一水兵から成り上がり、毎晩軍艦の喫水線下で繰り広げられた残酷な私刑に耐え、また歴戦の下士官たる先任搭乗員として軍に仕えた目から見て、[[イギリス]]の階級社会に範をとった海軍様式の生活に嫌気が差してのことを考えるとかなり同情の余地がある。戦地に於いても食事と環境の彼我の差に鬱屈していた坂井は、主計兵に殴られた部下の報復として南部拳銃を発砲し士官の食料を強奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、坂井は終戦前には士官に昇進したが、下士官からのたたき上げである彼は「特務士官」と称され、士官の社交から「卑しき分際」とされて扱われたことに関して大いに不満があったことを、零戦の機首に仕込まれた優秀な機関銃の設計者が特務士官であったことを例にとり、彼の著書に記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし誇張された対立関係は、後の戦記や社会一般のイメージにもにも多大な影響を与え、士官・下士官ともに評判は著しくない。また[[源田実]]没後に、源田を含めた士官批判が特に増えた事も問題視されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他の搭乗員の評価 ===&lt;br /&gt;
彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、「戦争を売り物にしている」という批判に対し坂井は心を痛めていたらしい。彼の処女作である「坂井三郎空戦記録」は出版社（出版協同社）が倒産してしまったため、印税はすべて不渡りになってしまった。手形割引である程度の収入を得ることも出来たのだが「別に残念と思わなかった」上に、本を出版してくれた社長に対する恩義のため、あえて相当の処置はしなかったらしい。ミリオンヒットの海外出版版「SAMURAI」も契約不履行でほとんど収入は入らなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし「戦争を売り物にしている」と言う意味は、坂井が海軍航空隊のエース（海軍に[[エースパイロット]]は存在しない）と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している点である。また坂井の負傷による本土帰還後に、もっとも壮絶な航空戦に突入した事も、同僚が坂井を評価できない理由である。また「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く（緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である）、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逸話 ==&lt;br /&gt;
=== 大型輸送機を見逃す ===&lt;br /&gt;
1942年初頭、[[オランダ領東インド]]（今の[[インドネシア|インドネシア共和国]]）・[[ジャワ島]]の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載した[[オランダ軍]]の大型輸送機（坂井は[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-4]]と回想しているが実際には[[DC-3]]と思われる）に遭遇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、当該エリアを飛行する敵国機（飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない）は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、[[青山学院]]中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍[[看護師|看護婦]]が、「あのパイロットに会いたい」と[[赤十字]]等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空の要塞を初撃墜 ===&lt;br /&gt;
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられた[[ボーイング]][[B-17]]爆撃機を[[枢軸国|枢軸国軍]]側兵士として初めて撃墜した1人とされている（共同撃墜）。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝（[[ヒラヌマ|戦艦ヒラヌマ]]撃沈発表）が流布された。ただし、現在確認できる当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名は記載されてはいない為、坂井が実際にこの戦闘に参加していたかどうか疑問視する意見もある一方、東京支局長との会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド･ストライプス」に発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
晩年、『[[朝まで生テレビ]]』に坂井が出演したことがある。その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわすと、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。ただし、現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、暇な時に懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の彼の愛車、[[日産・スカイライン|スカイライン]]GTを引き合いに出され、「[[自動車]]と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方が良いに決まっています。車はバックが出来ますから」&amp;lt;ref&amp;gt;この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由で[[ユーノス・ロードスター]]を愛車としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた[[水木しげる]]に「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描く事ができず苦労したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作 ==&lt;br /&gt;
=== 著作 ===&lt;br /&gt;
*『坂井三郎空戦記録』&lt;br /&gt;
*『大空のサムライ』正･続･戦話&lt;br /&gt;
*『零戦の真実』&lt;br /&gt;
*『零戦の運命』&lt;br /&gt;
*『零戦の最後』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さかいさふろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1916年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2000年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍搭乗員]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Saburō Sakai]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163329</id>
		<title>坂井三郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163329"/>
				<updated>2012-07-10T16:46:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Sakai as young pilot.jpg|thumb|300px|1939年、漢口基地での坂井三郎]]&lt;br /&gt;
'''坂井 三郎'''（'''さかい さぶろう'''、[[1916年]]（大正5年）[[8月26日]] - [[2000年]]（平成12年）[[9月22日]]）は、[[大日本帝国海軍]]の[[戦闘機]]搭乗員（[[パイロット]]）。[[太平洋戦争]]終戦時は[[海軍少尉]]、最終階級は[[海軍中尉]]。著書『[[大空のサムライ]]』がベストセラーになったため、日本で最も有名な[[エース・パイロット]]として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
=== 戦艦の砲手から戦闘機搭乗員へ ===&lt;br /&gt;
[[佐賀県]][[佐賀郡]]西与賀村大字厘外1523番地（現在の[[佐賀市]]西与賀町大字厘外）に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる（名前は祖父の勝三郎に由来している）。坂井が小学校6年生の[[1928年]]（昭和3年）、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。[[青山学院]]中等部に進学したが、素行不良を理由に退学処分となったため帰郷し、約2年間農作業に従事した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、[[騎手]]になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で[[佐世保海軍航空隊|佐世保航空隊]]の平山五郎[[海軍大尉]]操縦の[[飛行艇]]が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れ、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが[[1933年]]（昭和8年）5月1日、[[佐世保市|佐世保]][[海兵団]]へ入団した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月1日には、[[戦艦]][[霧島 (戦艦)|霧島]]に配属され、15センチ副砲の砲手となった。[[1935年]]（昭和10年）5月11日、横須賀の[[海軍砲術学校]]に入校。翌[[1936年]]（昭和11年）、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に[[戦艦]][[榛名 (戦艦)|榛名]]に配属。[[大艦巨砲主義]]全盛の当時、花形とされた戦艦の[[主砲]]の二番砲塔の砲手に任ぜられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。[[1937年]]（昭和12年）3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では[[昭和天皇]]名代の[[伏見宮博恭王]]より、恩賜の[[銀時計]]を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 撃墜王への道 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Cockpit A5M.jpg|200px|thumb|[[九六式艦上戦闘機]]に乗った坂井（1939年）]]&lt;br /&gt;
坂井は[[佐伯海軍航空隊|佐伯航空隊]]での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、[[1938年]]（昭和13年）4月9日、[[大村海軍航空隊|大村航空隊]]に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して[[台湾]]の[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]に異動後、同年9月11日には、[[中国大陸]]の[[九江市|九江]]に進出していた歴戦の航空隊である[[第一二航空隊]]に配属となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年）10月5日の[[漢口]]空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀[[大尉]]の三番機として[[九六式艦上戦闘機]]に搭乗し、初出撃ながら[[中華民国国軍]]の[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜。翌[[1939年]]（昭和14年）5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの[[南昌市|南昌]]基地攻撃に参加し、6月には[[占領]]された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB（エスベー）爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で[[宜昌市|宜昌]]上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌[[1940年]]（昭和15年）5月には、[[運城市|運城]]基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年）6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの[[零式艦上戦闘機]]（零戦）と初めて出会う。同年10月17日に再び[[高雄海軍航空隊]]に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、[[名古屋飛行場|名古屋]]で零戦を受け取って、[[鹿屋航空基地|鹿屋基地]]経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌[[1941年]]（昭和16年）春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、[[海南島]]の[[三亜市|三亜]][[三亜鳳凰国際空港|基地]]に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の[[仏印進駐|北部仏印進駐]]に呼応する形で、[[ハノイ]][[ノイバイ国際空港|飛行場]]にも進出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）4月10日、第十二航空隊の横山保大尉からの「坂井は俺の隊にくれ」との要請を受けて、高雄空から、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。[[武漢王家墩飛行場|漢口基地]]から華中での作戦に従事し、5月3日には[[重慶市|重慶]]攻撃に出撃する。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の[[成都]]攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、[[一式陸上攻撃機]]7機による成都黎明空襲（攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から[[宜昌市|宜昌]]飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流）で、中華民国国軍の[[I-15 (航空機)|I-15]]戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となる。更に8月21日には、再度の成都攻撃で、[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[ソビエト連邦|ソ連]]からの[[援蒋ルート]]（北方ルート）を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、[[運城市|運城]]基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として[[蘭州]]基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の[[西寧市|西寧]]への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された[[岷山山脈]]の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは[[日中戦争]]における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[1941年]]（昭和16年）10月に台湾の[[台南]]基地に新設された[[台南海軍航空隊|台南航空隊]]（以下、台南空と略）に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で後に「ラバウルの貴公子」とも称される[[笹井醇一]]中尉らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）12月8日の開戦時は[[フィリピン]]に駐留する[[アメリカ陸軍]]航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後は[[ラバウル]]、[[ラエ]]に移動、ニューギニアやソロモンに展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]（米豪軍）と激戦を繰り広げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]となる[[リンドン・B・ジョンソン]]（当時[[下院]][[議員]]）が同乗していた[[B-26]]爆撃機を撃墜しかけるという逸話を残している（この逸話は特に米側では長く真実と受けとめられていたが、空戦事実こそ存在したものの、下院議員に同乗したとされるクルーへの聞き取りおよび飛行記録等から、政治的なプロパガンダ・宣伝による創作美談であり、事実とは異なる、あるいは同乗の事実なしとの指摘がその後なされている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソロモン、ラエでの活躍 ===&lt;br /&gt;
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の[[1942年]]（昭和17年）5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった[[西沢広義]]と[[太田敏夫]]の3人により、無断で[[ポートモレスビー]]のセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して[[笹井醇一]]から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 負傷と復帰 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai wounded.jpg|233px|thumb|負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真]]&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ･“パグ”･サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。&lt;br /&gt;
そののち[[ガダルカナル島]]の上空において、坂井は[[SBD (航空機)|SBD]]ドーントレスの編隊を''「油断して直線飛行している」[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット]]の編隊''と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し（そのため左腕が麻痺状態にあった）計器すら満足に見えないという重傷を負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした&amp;lt;ref&amp;gt;まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、[[ヤシ|椰子]]の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。また、この時の飛行を重巡洋艦「鳥海」から目撃した[[丹羽文雄]]は、著書「海戦」の中で、びっくりするほど低空を飛行していると記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後[[内地]]に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の[[目#人間の目|視力]]をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の[[第251海軍航空隊|251空]]（台南空を改称）に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には[[小園安名]]中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。[[1943年]]（昭和18年）2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で[[教官]]の任に就く、[[1943年]]（昭和18年）4月大村航空隊に異動、[[1944年]]（昭和19年）4月13日、[[横須賀海軍航空隊]]に配属された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 激戦を生き抜く ===&lt;br /&gt;
戦況の悪化、[[絶対国防圏]]の重要な一角であった[[サイパン島]]への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、[[1944年]]（昭和19年）6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、[[マリアナ沖海戦]]に勝利したばかりで、[[マリアナ諸島]]沖に展開の米海軍[[機動部隊]]（[[第38任務部隊|第58任務部隊）]]を攻撃することも視野に入れつつ、[[三沢基地]]で練成中だった[[第二五二海軍航空隊|第252航空隊]]他と共に、零戦の他に[[艦上攻撃機]][[天山_(航空機)|天山]]、[[艦上爆撃機]][[彗星_(航空機)|彗星]]他も含めて急遽編成された「[[八幡神|八幡]]空襲部隊」の傘下に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊の[[グラマン]][[F6F_(航空機)|F6F ヘルキャット]]戦闘機約70機が、[[航空母艦|空母]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]、空母[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]] 、空母[[バターン (空母)|バターン]]を発艦して硫黄島に来襲。これを[[レーダー]]探知して、横須賀空の25機、そして252空と[[第三〇一海軍航空隊|301空]]（戦闘601飛行隊）の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった[[天山_(航空機)|天山]]8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は[[武藤金義]]飛曹長であった。&lt;br /&gt;
出撃前、横須賀空司令の[[三浦鑑三]]大佐より、｢本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。｣との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空[[特別攻撃隊|特攻]]命令が下されることになる。&lt;br /&gt;
攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。&lt;br /&gt;
坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、｢御苦労だった。詳しくは明日聞こう｣の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機（内、横空零戦隊は9機）となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還：零戦10機　天山艦攻7機（内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機）。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではＦ6Ｆ1機『撃破』とされている。&lt;br /&gt;
この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。&lt;br /&gt;
山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
硫黄島から帰還後の[[1944年]]（昭和19年）8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「[[紫電改]]」を装備する[[第343海軍航空隊|第三四三航空隊]]（2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空）戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。[[1945年]]（昭和20年）7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の[[武藤金義]]少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍の[[エーリヒ・ハルトマン]]も1機撃墜（搭乗員は生還）されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦最後の空戦 ===&lt;br /&gt;
[[ポツダム宣言]]受諾後の[[1945年]]（昭和20年）[[8月17日]]、アメリカ軍をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による占領下の[[沖縄県|沖縄]]の基地から日本本土[[偵察]]のために飛来した[[B-32_(航空機)|B-32]]ドミネーター2機と日本海軍機が[[房総半島]]から[[伊豆諸島]]の上空で交戦した[[第二次世界大戦]]最後の[[空中戦]]に坂井も参加している。この迎撃には、紫電改の他に零戦が準備されたが、坂井は紫電改には目もくれずに[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦52型]]で迎撃に上がった。また、この時に飛来した機を日本側は新型のB-32であるとは知らず、判明したのは戦後である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた（この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の[[戦死]]者）。戦後、坂井はこの件で[[戦争犯罪人]]として訴追されることを懸念していたようだが、18日の時点では日本は正式に[[降伏]]していなかったこと（降伏文書調印は[[9月2日]]）、[[爆撃機]]への迎撃であり[[正当防衛]]といえること等から[[国際法]]上問題無しとされ、この件で戦後連合国軍より何ら追及されることはなかった。余談だが、この交戦に参加した[[小町定]]は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をしている為、零戦で離陸した坂井は攻撃が出来なかったと言う説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「大空のサムライ」としての戦後 ===&lt;br /&gt;
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる[[戦記]]『[[大空のサムライ]]』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の欧米では、戦争中の[[プロパガンダ]]の影響もあって、[[日本人]]に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、[[イラク治安部隊#空軍|イラク空軍]]では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞　2004年8月17日付国際面記事&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。[[P-51 (航空機)|P-51ムスタング]]を操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返り{{要出典|date=2011年03月}}までやってみせた。これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。ただし当人はかなり無理をしており、歳には勝てないと慨嘆した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を[[藤岡弘]]が演じ企画を映画[[岸壁の母]]の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を[[東宝]]が担当、[[1976年]]（昭和51年）に映画化された（[[丸山誠治]]監督作品。[[特撮]]監督は[[川北紘一]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]（平成12年）9月22日、[[厚木基地]]で催された[[アメリカ海軍]]西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 坂井の戦術 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Lentaja.jpg|233px|thumb|日中戦争での坂井]]&lt;br /&gt;
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から[[先制攻撃]]をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作『坂井三郎空戦記録』には、昼間の星の見方が詳しく述懐されている他、坂井は自らの視力向上のため、昼間に星を見つける訓練を日々繰り返していた旨も記述されている。星が見えたという真偽は定かではないが、視力2.5～3以上の視力を有する人間は昼間に一等星などの強い明るさを持つ星なら見ることが可能であり、また現代では40cm反射望遠鏡などの高倍率の望遠鏡を使用すれば、誰でも昼間星座観察などが可能である。&amp;lt;/ref&amp;gt;」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|title=大空のサムライ　坂井三郎氏　零戦を語る |url=http://www.youtube.com/watch?v=TRMcvq6DfKI&amp;amp;feature=player_embedded#at=19|accessdate=2011-6-1|publisher=Youtube}}&amp;lt;/ref&amp;gt;の割合で索敵するとも言う（坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの[[西沢広義]]は水平線より下の索敵を得意としていたらしい）。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト（巴戦）より[[一撃離脱戦法|一撃離脱]]の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている（そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが）。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。&lt;br /&gt;
加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、（スコアでは坂井に及ばない事から）恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機（小隊の2・3番機）の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた（そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「（空戦では）撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し（1000馬力は1000馬力しか出ない）、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[特別攻撃隊|特攻作戦]]については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと[[大本営]]は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[加藤寛一郎]]によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作の評価 ==&lt;br /&gt;
『大空のサムライ』は[[ゴーストライター]]（当時の光人社社長）による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。&lt;br /&gt;
ちなみに光人社社長（当時。高城肇）との共著は「続々大空のサムライ　撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴーストライターの真意 ===&lt;br /&gt;
「零戦の会」の副会長「[[神立尚紀]]」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「[[武道通信]]」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「[[渡辺洋二]]」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、[[東京大学]]名誉教授の[[加藤寛一郎]]の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに？」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している（加藤寛一郎　『飛行の秘術のはなし』　講談社〈文庫〉、1999年、178頁）。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人の[[ノンフィクション]]作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった（坂井の作品には多くの[[フィクション]]が含まれている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 士官との対立 ===&lt;br /&gt;
著作内には、大東亜戦争における日本海軍上層部の杜撰な作戦計画や戦況判断の甘さに対する批判も多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、戦時中、一戦闘機搭乗員にすぎなかった坂井は海軍上層部の行動を知りうる立場には当然無く、後にアメリカの軍人から「士官が集まる場所は日時が大体決まっていたから、そこへ間諜を送って情報を得ていた」と知り愕然となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、当時の日本海軍における、[[士官]]の[[エリート]]意識による[[下士官]]への傲慢な態度や、士官と下士官との間での待遇の差に対する批判も多くの著作内でなされた。それゆえ、戦後は[[海軍兵学校]]出身の元搭乗員を中心として、多くの敵を作ったのも事実である。実際、旧海軍人のパーティに招かれた際「海軍は本当に良いところでしたね」と話しかけてきた元海軍士官に「とんでもない！あんな所は二度とご免です」と回答したと生前語っており。朋輩の兵曹が大尉になじられたのを発端に大尉の殺害計画を練り、衛兵伍長に諭されて未遂に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは坂井が一水兵から成り上がり、毎晩軍艦の喫水線下で繰り広げられた残酷な私刑に耐え、また歴戦の下士官たる先任搭乗員として軍に仕えた目から見て、[[イギリス]]の階級社会に範をとった海軍様式の生活に嫌気が差してのことを考えるとかなり同情の余地がある。戦地に於いても食事と環境の彼我の差に鬱屈していた坂井は、主計兵に殴られた部下の報復として南部拳銃を発砲し士官の食料を強奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、坂井は終戦前には士官に昇進したが、下士官からのたたき上げである彼は「特務士官」と称され、士官の社交から「卑しき分際」とされて扱われたことに関して大いに不満があったことを、零戦の機首に仕込まれた優秀な機関銃の設計者が特務士官であったことを例にとり、彼の著書に記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし誇張された対立関係は、後の戦記や社会一般のイメージにもにも多大な影響を与え、士官・下士官ともに評判は著しくない。また[[源田実]]没後に、源田を含めた士官批判が特に増えた事も問題視されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他の搭乗員の評価 ===&lt;br /&gt;
彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、「戦争を売り物にしている」という批判に対し坂井は心を痛めていたらしい。彼の処女作である「坂井三郎空戦記録」は出版社（出版協同社）が倒産してしまったため、印税はすべて不渡りになってしまった。手形割引である程度の収入を得ることも出来たのだが「別に残念と思わなかった」上に、本を出版してくれた社長に対する恩義のため、あえて相当の処置はしなかったらしい。ミリオンヒットの海外出版版「SAMURAI」も契約不履行でほとんど収入は入らなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし「戦争を売り物にしている」と言う意味は、坂井が海軍航空隊のエース（海軍に[[エースパイロット]]は存在しない）と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している点である。また坂井の負傷による本土帰還後に、もっとも壮絶な航空戦に突入した事も、同僚が坂井を評価できない理由である。また「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く（緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である）、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逸話 ==&lt;br /&gt;
=== 大型輸送機を見逃す ===&lt;br /&gt;
1942年初頭、[[オランダ領東インド]]（今の[[インドネシア|インドネシア共和国]]）・[[ジャワ島]]の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載した[[オランダ軍]]の大型輸送機（坂井は[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-4]]と回想しているが実際には[[DC-3]]と思われる）に遭遇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、当該エリアを飛行する敵国機（飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない）は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、[[青山学院]]中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍[[看護師|看護婦]]が、「あのパイロットに会いたい」と[[赤十字]]等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空の要塞を初撃墜 ===&lt;br /&gt;
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられた[[ボーイング]][[B-17]]爆撃機を[[枢軸国|枢軸国軍]]側兵士として初めて撃墜した1人とされている（共同撃墜）。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝（[[ヒラヌマ|戦艦ヒラヌマ]]撃沈発表）が流布された。ただし、現在確認できる当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名は記載されてはいない為、坂井が実際にこの戦闘に参加していたかどうか疑問視する意見もある一方、東京支局長との会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド･ストライプス」に発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
晩年、『[[朝まで生テレビ]]』に坂井が出演したことがある。その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわすと、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。ただし、現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、暇な時に懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の彼の愛車、[[日産・スカイライン|スカイライン]]GTを引き合いに出され、「[[自動車]]と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方が良いに決まっています。車はバックが出来ますから」&amp;lt;ref&amp;gt;この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由で[[ユーノス・ロードスター]]を愛車としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた[[水木しげる]]に「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描く事ができず苦労したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作 ==&lt;br /&gt;
=== 著作 ===&lt;br /&gt;
*『坂井三郎空戦記録』&lt;br /&gt;
*『大空のサムライ』正･続･戦話&lt;br /&gt;
*『零戦の真実』&lt;br /&gt;
*『零戦の運命』&lt;br /&gt;
*『零戦の最後』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さかいさふろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1916年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2000年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍搭乗員]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Saburō Sakai]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163328</id>
		<title>坂井三郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163328"/>
				<updated>2012-07-10T16:43:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: wikipedia:坂井三郎から転記、一部編集。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''坂井 三郎'''（'''さかい さぶろう'''、[[1916年]]（大正5年）[[8月26日]] - [[2000年]]（平成12年）[[9月22日]]）は、[[大日本帝国海軍]]の[[戦闘機]]搭乗員（[[パイロット]]）。[[太平洋戦争]]終戦時は[[海軍少尉]]、最終階級は[[海軍中尉]]。著書『[[大空のサムライ]]』がベストセラーになったため、日本で最も有名な[[エース・パイロット]]として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
=== 戦艦の砲手から戦闘機搭乗員へ ===&lt;br /&gt;
[[佐賀県]][[佐賀郡]]西与賀村大字厘外1523番地（現在の[[佐賀市]]西与賀町大字厘外）に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる（名前は祖父の勝三郎に由来している）。坂井が小学校6年生の[[1928年]]（昭和3年）、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。[[青山学院]]中等部に進学したが、素行不良を理由に退学処分となったため帰郷し、約2年間農作業に従事した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、[[騎手]]になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で[[佐世保海軍航空隊|佐世保航空隊]]の平山五郎[[海軍大尉]]操縦の[[飛行艇]]が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れ、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが[[1933年]]（昭和8年）5月1日、[[佐世保市|佐世保]][[海兵団]]へ入団した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月1日には、[[戦艦]][[霧島 (戦艦)|霧島]]に配属され、15センチ副砲の砲手となった。[[1935年]]（昭和10年）5月11日、横須賀の[[海軍砲術学校]]に入校。翌[[1936年]]（昭和11年）、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に[[戦艦]][[榛名 (戦艦)|榛名]]に配属。[[大艦巨砲主義]]全盛の当時、花形とされた戦艦の[[主砲]]の二番砲塔の砲手に任ぜられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。[[1937年]]（昭和12年）3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では[[昭和天皇]]名代の[[伏見宮博恭王]]より、恩賜の[[銀時計]]を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 撃墜王への道 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Cockpit A5M.jpg|200px|thumb|[[九六式艦上戦闘機]]に乗った坂井（1939年）]]&lt;br /&gt;
坂井は[[佐伯海軍航空隊|佐伯航空隊]]での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、[[1938年]]（昭和13年）4月9日、[[大村海軍航空隊|大村航空隊]]に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して[[台湾]]の[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]に異動後、同年9月11日には、[[中国大陸]]の[[九江市|九江]]に進出していた歴戦の航空隊である[[第一二航空隊]]に配属となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年）10月5日の[[漢口]]空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀[[大尉]]の三番機として[[九六式艦上戦闘機]]に搭乗し、初出撃ながら[[中華民国国軍]]の[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜。翌[[1939年]]（昭和14年）5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの[[南昌市|南昌]]基地攻撃に参加し、6月には[[占領]]された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB（エスベー）爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で[[宜昌市|宜昌]]上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌[[1940年]]（昭和15年）5月には、[[運城市|運城]]基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年）6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの[[零式艦上戦闘機]]（零戦）と初めて出会う。同年10月17日に再び[[高雄海軍航空隊]]に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、[[名古屋飛行場|名古屋]]で零戦を受け取って、[[鹿屋航空基地|鹿屋基地]]経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌[[1941年]]（昭和16年）春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、[[海南島]]の[[三亜市|三亜]][[三亜鳳凰国際空港|基地]]に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の[[仏印進駐|北部仏印進駐]]に呼応する形で、[[ハノイ]][[ノイバイ国際空港|飛行場]]にも進出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）4月10日、第十二航空隊の横山保大尉からの「坂井は俺の隊にくれ」との要請を受けて、高雄空から、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。[[武漢王家墩飛行場|漢口基地]]から華中での作戦に従事し、5月3日には[[重慶市|重慶]]攻撃に出撃する。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の[[成都]]攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、[[一式陸上攻撃機]]7機による成都黎明空襲（攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から[[宜昌市|宜昌]]飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流）で、中華民国国軍の[[I-15 (航空機)|I-15]]戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となる。更に8月21日には、再度の成都攻撃で、[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[ソビエト連邦|ソ連]]からの[[援蒋ルート]]（北方ルート）を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、[[運城市|運城]]基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として[[蘭州]]基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の[[西寧市|西寧]]への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された[[岷山山脈]]の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは[[日中戦争]]における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[1941年]]（昭和16年）10月に台湾の[[台南]]基地に新設された[[台南海軍航空隊|台南航空隊]]（以下、台南空と略）に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で後に「ラバウルの貴公子」とも称される[[笹井醇一]]中尉らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）12月8日の開戦時は[[フィリピン]]に駐留する[[アメリカ陸軍]]航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後は[[ラバウル]]、[[ラエ]]に移動、ニューギニアやソロモンに展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]（米豪軍）と激戦を繰り広げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]となる[[リンドン・B・ジョンソン]]（当時[[下院]][[議員]]）が同乗していた[[B-26]]爆撃機を撃墜しかけるという逸話を残している（この逸話は特に米側では長く真実と受けとめられていたが、空戦事実こそ存在したものの、下院議員に同乗したとされるクルーへの聞き取りおよび飛行記録等から、政治的なプロパガンダ・宣伝による創作美談であり、事実とは異なる、あるいは同乗の事実なしとの指摘がその後なされている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソロモン、ラエでの活躍 ===&lt;br /&gt;
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の[[1942年]]（昭和17年）5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった[[西沢広義]]と[[太田敏夫]]の3人により、無断で[[ポートモレスビー]]のセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して[[笹井醇一]]から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 負傷と復帰 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai wounded.jpg|233px|thumb|負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真]]&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ･“パグ”･サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。&lt;br /&gt;
そののち[[ガダルカナル島]]の上空において、坂井は[[SBD (航空機)|SBD]]ドーントレスの編隊を''「油断して直線飛行している」[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット]]の編隊''と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し（そのため左腕が麻痺状態にあった）計器すら満足に見えないという重傷を負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした&amp;lt;ref&amp;gt;まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、[[ヤシ|椰子]]の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。また、この時の飛行を重巡洋艦「鳥海」から目撃した[[丹羽文雄]]は、著書「海戦」の中で、びっくりするほど低空を飛行していると記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後[[内地]]に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の[[目#人間の目|視力]]をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の[[第251海軍航空隊|251空]]（台南空を改称）に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には[[小園安名]]中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。[[1943年]]（昭和18年）2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で[[教官]]の任に就く、[[1943年]]（昭和18年）4月大村航空隊に異動、[[1944年]]（昭和19年）4月13日、[[横須賀海軍航空隊]]に配属された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 激戦を生き抜く ===&lt;br /&gt;
戦況の悪化、[[絶対国防圏]]の重要な一角であった[[サイパン島]]への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、[[1944年]]（昭和19年）6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、[[マリアナ沖海戦]]に勝利したばかりで、[[マリアナ諸島]]沖に展開の米海軍[[機動部隊]]（[[第38任務部隊|第58任務部隊）]]を攻撃することも視野に入れつつ、[[三沢基地]]で練成中だった[[第二五二海軍航空隊|第252航空隊]]他と共に、零戦の他に[[艦上攻撃機]][[天山_(航空機)|天山]]、[[艦上爆撃機]][[彗星_(航空機)|彗星]]他も含めて急遽編成された「[[八幡神|八幡]]空襲部隊」の傘下に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊の[[グラマン]][[F6F_(航空機)|F6F ヘルキャット]]戦闘機約70機が、[[航空母艦|空母]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]、空母[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]] 、空母[[バターン (空母)|バターン]]を発艦して硫黄島に来襲。これを[[レーダー]]探知して、横須賀空の25機、そして252空と[[第三〇一海軍航空隊|301空]]（戦闘601飛行隊）の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった[[天山_(航空機)|天山]]8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は[[武藤金義]]飛曹長であった。&lt;br /&gt;
出撃前、横須賀空司令の[[三浦鑑三]]大佐より、｢本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。｣との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空[[特別攻撃隊|特攻]]命令が下されることになる。&lt;br /&gt;
攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。&lt;br /&gt;
坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、｢御苦労だった。詳しくは明日聞こう｣の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機（内、横空零戦隊は9機）となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還：零戦10機　天山艦攻7機（内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機）。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではＦ6Ｆ1機『撃破』とされている。&lt;br /&gt;
この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。&lt;br /&gt;
山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
硫黄島から帰還後の[[1944年]]（昭和19年）8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「[[紫電改]]」を装備する[[第343海軍航空隊|第三四三航空隊]]（2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空）戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。[[1945年]]（昭和20年）7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の[[武藤金義]]少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍の[[エーリヒ・ハルトマン]]も1機撃墜（搭乗員は生還）されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦最後の空戦 ===&lt;br /&gt;
[[ポツダム宣言]]受諾後の[[1945年]]（昭和20年）[[8月17日]]、アメリカ軍をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による占領下の[[沖縄県|沖縄]]の基地から日本本土[[偵察]]のために飛来した[[B-32_(航空機)|B-32]]ドミネーター2機と日本海軍機が[[房総半島]]から[[伊豆諸島]]の上空で交戦した[[第二次世界大戦]]最後の[[空中戦]]に坂井も参加している。この迎撃には、紫電改の他に零戦が準備されたが、坂井は紫電改には目もくれずに[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦52型]]で迎撃に上がった。また、この時に飛来した機を日本側は新型のB-32であるとは知らず、判明したのは戦後である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた（この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の[[戦死]]者）。戦後、坂井はこの件で[[戦争犯罪人]]として訴追されることを懸念していたようだが、18日の時点では日本は正式に[[降伏]]していなかったこと（降伏文書調印は[[9月2日]]）、[[爆撃機]]への迎撃であり[[正当防衛]]といえること等から[[国際法]]上問題無しとされ、この件で戦後連合国軍より何ら追及されることはなかった。余談だが、この交戦に参加した[[小町定]]は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をしている為、零戦で離陸した坂井は攻撃が出来なかったと言う説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「大空のサムライ」としての戦後 ===&lt;br /&gt;
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる[[戦記]]『[[大空のサムライ]]』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の欧米では、戦争中の[[プロパガンダ]]の影響もあって、[[日本人]]に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、[[イラク治安部隊#空軍|イラク空軍]]では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞　2004年8月17日付国際面記事&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。[[P-51 (航空機)|P-51ムスタング]]を操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返り{{要出典|date=2011年03月}}までやってみせた。これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。ただし当人はかなり無理をしており、歳には勝てないと慨嘆した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を[[藤岡弘]]が演じ企画を映画[[岸壁の母]]の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を[[東宝]]が担当、[[1976年]]（昭和51年）に映画化された（[[丸山誠治]]監督作品。[[特撮]]監督は[[川北紘一]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]（平成12年）9月22日、[[厚木基地]]で催された[[アメリカ海軍]]西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 坂井の戦術 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Lentaja.jpg|233px|thumb|日中戦争での坂井]]&lt;br /&gt;
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から[[先制攻撃]]をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作『坂井三郎空戦記録』には、昼間の星の見方が詳しく述懐されている他、坂井は自らの視力向上のため、昼間に星を見つける訓練を日々繰り返していた旨も記述されている。星が見えたという真偽は定かではないが、視力2.5～3以上の視力を有する人間は昼間に一等星などの強い明るさを持つ星なら見ることが可能であり、また現代では40cm反射望遠鏡などの高倍率の望遠鏡を使用すれば、誰でも昼間星座観察などが可能である。&amp;lt;/ref&amp;gt;」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|title=大空のサムライ　坂井三郎氏　零戦を語る |url=http://www.youtube.com/watch?v=TRMcvq6DfKI&amp;amp;feature=player_embedded#at=19|accessdate=2011-6-1|publisher=Youtube}}&amp;lt;/ref&amp;gt;の割合で索敵するとも言う（坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの[[西沢広義]]は水平線より下の索敵を得意としていたらしい）。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト（巴戦）より[[一撃離脱戦法|一撃離脱]]の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている（そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが）。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。&lt;br /&gt;
加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、（スコアでは坂井に及ばない事から）恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機（小隊の2・3番機）の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた（そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「（空戦では）撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し（1000馬力は1000馬力しか出ない）、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[特別攻撃隊|特攻作戦]]については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと[[大本営]]は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[加藤寛一郎]]によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作の評価 ==&lt;br /&gt;
『大空のサムライ』は[[ゴーストライター]]（当時の光人社社長）による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。&lt;br /&gt;
ちなみに光人社社長（当時。高城肇）との共著は「続々大空のサムライ　撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴーストライターの真意 ===&lt;br /&gt;
「零戦の会」の副会長「[[神立尚紀]]」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「[[武道通信]]」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「[[渡辺洋二]]」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、[[東京大学]]名誉教授の[[加藤寛一郎]]の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに？」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している（加藤寛一郎　『飛行の秘術のはなし』　講談社〈文庫〉、1999年、178頁）。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人の[[ノンフィクション]]作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった（坂井の作品には多くの[[フィクション]]が含まれている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 士官との対立 ===&lt;br /&gt;
著作内には、大東亜戦争における日本海軍上層部の杜撰な作戦計画や戦況判断の甘さに対する批判も多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、戦時中、一戦闘機搭乗員にすぎなかった坂井は海軍上層部の行動を知りうる立場には当然無く、後にアメリカの軍人から「士官が集まる場所は日時が大体決まっていたから、そこへ間諜を送って情報を得ていた」と知り愕然となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、当時の日本海軍における、[[士官]]の[[エリート]]意識による[[下士官]]への傲慢な態度や、士官と下士官との間での待遇の差に対する批判も多くの著作内でなされた。それゆえ、戦後は[[海軍兵学校]]出身の元搭乗員を中心として、多くの敵を作ったのも事実である。実際、旧海軍人のパーティに招かれた際「海軍は本当に良いところでしたね」と話しかけてきた元海軍士官に「とんでもない！あんな所は二度とご免です」と回答したと生前語っており。朋輩の兵曹が大尉になじられたのを発端に大尉の殺害計画を練り、衛兵伍長に諭されて未遂に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは坂井が一水兵から成り上がり、毎晩軍艦の喫水線下で繰り広げられた残酷な私刑に耐え、また歴戦の下士官たる先任搭乗員として軍に仕えた目から見て、[[イギリス]]の階級社会に範をとった海軍様式の生活に嫌気が差してのことを考えるとかなり同情の余地がある。戦地に於いても食事と環境の彼我の差に鬱屈していた坂井は、主計兵に殴られた部下の報復として南部拳銃を発砲し士官の食料を強奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、坂井は終戦前には士官に昇進したが、下士官からのたたき上げである彼は「特務士官」と称され、士官の社交から「卑しき分際」とされて扱われたことに関して大いに不満があったことを、零戦の機首に仕込まれた優秀な機関銃の設計者が特務士官であったことを例にとり、彼の著書に記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし誇張された対立関係は、後の戦記や社会一般のイメージにもにも多大な影響を与え、士官・下士官ともに評判は著しくない。また[[源田実]]没後に、源田を含めた士官批判が特に増えた事も問題視されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他の搭乗員の評価 ===&lt;br /&gt;
彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、「戦争を売り物にしている」という批判に対し坂井は心を痛めていたらしい。彼の処女作である「坂井三郎空戦記録」は出版社（出版協同社）が倒産してしまったため、印税はすべて不渡りになってしまった。手形割引である程度の収入を得ることも出来たのだが「別に残念と思わなかった」上に、本を出版してくれた社長に対する恩義のため、あえて相当の処置はしなかったらしい。ミリオンヒットの海外出版版「SAMURAI」も契約不履行でほとんど収入は入らなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし「戦争を売り物にしている」と言う意味は、坂井が海軍航空隊のエース（海軍に[[エースパイロット]]は存在しない）と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している点である。また坂井の負傷による本土帰還後に、もっとも壮絶な航空戦に突入した事も、同僚が坂井を評価できない理由である。また「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く（緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である）、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逸話 ==&lt;br /&gt;
=== 大型輸送機を見逃す ===&lt;br /&gt;
1942年初頭、[[オランダ領東インド]]（今の[[インドネシア|インドネシア共和国]]）・[[ジャワ島]]の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載した[[オランダ軍]]の大型輸送機（坂井は[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-4]]と回想しているが実際には[[DC-3]]と思われる）に遭遇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、当該エリアを飛行する敵国機（飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない）は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、[[青山学院]]中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍[[看護師|看護婦]]が、「あのパイロットに会いたい」と[[赤十字]]等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空の要塞を初撃墜 ===&lt;br /&gt;
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられた[[ボーイング]][[B-17]]爆撃機を[[枢軸国|枢軸国軍]]側兵士として初めて撃墜した1人とされている（共同撃墜）。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝（[[ヒラヌマ|戦艦ヒラヌマ]]撃沈発表）が流布された。ただし、現在確認できる当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名は記載されてはいない為、坂井が実際にこの戦闘に参加していたかどうか疑問視する意見もある一方、東京支局長との会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド･ストライプス」に発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
晩年、『[[朝まで生テレビ]]』に坂井が出演したことがある。その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわすと、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。ただし、現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、暇な時に懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の彼の愛車、[[日産・スカイライン|スカイライン]]GTを引き合いに出され、「[[自動車]]と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方が良いに決まっています。車はバックが出来ますから」&amp;lt;ref&amp;gt;この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由で[[ユーノス・ロードスター]]を愛車としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた[[水木しげる]]に「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描く事ができず苦労したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作 ==&lt;br /&gt;
=== 著作 ===&lt;br /&gt;
*『坂井三郎空戦記録』&lt;br /&gt;
*『大空のサムライ』正･続･戦話&lt;br /&gt;
*『零戦の真実』&lt;br /&gt;
*『零戦の運命』&lt;br /&gt;
*『零戦の最後』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さかいさふろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1916年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2000年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍搭乗員]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Saburō Sakai]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163327</id>
		<title>坂井三郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&amp;diff=163327"/>
				<updated>2012-07-10T16:36:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: wikipedia:&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''坂井 三郎'''（'''さかい さぶろう'''、[[1916年]]（大正5年）[[8月26日]] - [[2000年]]（平成12年）[[9月22日]]）は、[[大日本帝国海軍]]の[[戦闘機]]搭乗員（[[パイロット]]）。[[太平洋戦争]]終戦時は[[海軍少尉]]、最終階級は[[海軍中尉]]。著書『[[大空のサムライ]]』がベストセラーになったため、日本で最も有名な[[エース・パイロット]]として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
=== 戦艦の砲手から戦闘機搭乗員へ ===&lt;br /&gt;
[[佐賀県]][[佐賀郡]]西与賀村大字厘外1523番地（現在の[[佐賀市]]西与賀町大字厘外）に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる（名前は祖父の勝三郎に由来している）。坂井が小学校6年生の[[1928年]]（昭和3年）、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。[[青山学院]]中等部に進学したが、素行不良を理由に退学処分となったため帰郷し、約2年間農作業に従事した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、[[騎手]]になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で[[佐世保海軍航空隊|佐世保航空隊]]の平山五郎[[海軍大尉]]操縦の[[飛行艇]]が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れ、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが[[1933年]]（昭和8年）5月1日、[[佐世保市|佐世保]][[海兵団]]へ入団した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月1日には、[[戦艦]][[霧島 (戦艦)|霧島]]に配属され、15センチ副砲の砲手となった。[[1935年]]（昭和10年）5月11日、横須賀の[[海軍砲術学校]]に入校。翌[[1936年]]（昭和11年）、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に[[戦艦]][[榛名 (戦艦)|榛名]]に配属。[[大艦巨砲主義]]全盛の当時、花形とされた戦艦の[[主砲]]の二番砲塔の砲手に任ぜられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。[[1937年]]（昭和12年）3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では[[昭和天皇]]名代の[[伏見宮博恭王]]より、恩賜の[[銀時計]]を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 撃墜王への道 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai Cockpit A5M.jpg|200px|thumb|[[九六式艦上戦闘機]]に乗った坂井（1939年）]]&lt;br /&gt;
坂井は[[佐伯海軍航空隊|佐伯航空隊]]での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、[[1938年]]（昭和13年）4月9日、[[大村海軍航空隊|大村航空隊]]に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して[[台湾]]の[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]に異動後、同年9月11日には、[[中国大陸]]の[[九江市|九江]]に進出していた歴戦の航空隊である[[第一二航空隊]]に配属となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年）10月5日の[[漢口]]空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀[[大尉]]の三番機として[[九六式艦上戦闘機]]に搭乗し、初出撃ながら[[中華民国国軍]]の[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜。翌[[1939年]]（昭和14年）5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの[[南昌市|南昌]]基地攻撃に参加し、6月には[[占領]]された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB（エスベー）爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で[[宜昌市|宜昌]]上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌[[1940年]]（昭和15年）5月には、[[運城市|運城]]基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年）6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの[[零式艦上戦闘機]]（零戦）と初めて出会う。同年10月17日に再び[[高雄海軍航空隊]]に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、[[名古屋飛行場|名古屋]]で零戦を受け取って、[[鹿屋航空基地|鹿屋基地]]経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌[[1941年]]（昭和16年）春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、[[海南島]]の[[三亜市|三亜]][[三亜鳳凰国際空港|基地]]に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の[[仏印進駐|北部仏印進駐]]に呼応する形で、[[ハノイ]][[ノイバイ国際空港|飛行場]]にも進出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）4月10日、第十二航空隊の横山保大尉からの「坂井は俺の隊にくれ」との要請を受けて、高雄空から、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。[[武漢王家墩飛行場|漢口基地]]から華中での作戦に従事し、5月3日には[[重慶市|重慶]]攻撃に出撃する。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の[[成都]]攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、[[一式陸上攻撃機]]7機による成都黎明空襲（攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から[[宜昌市|宜昌]]飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流）で、中華民国国軍の[[I-15 (航空機)|I-15]]戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となる。更に8月21日には、再度の成都攻撃で、[[I-16 (航空機)|I-16]]戦闘機1機を撃墜する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[ソビエト連邦|ソ連]]からの[[援蒋ルート]]（北方ルート）を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、[[運城市|運城]]基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として[[蘭州]]基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の[[西寧市|西寧]]への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された[[岷山山脈]]の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは[[日中戦争]]における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は、[[1941年]]（昭和16年）10月に台湾の[[台南]]基地に新設された[[台南海軍航空隊|台南航空隊]]（以下、台南空と略）に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で後に「ラバウルの貴公子」とも称される[[笹井醇一]]中尉らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）12月8日の開戦時は[[フィリピン]]に駐留する[[アメリカ陸軍]]航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後は[[ラバウル]]、[[ラエ]]に移動、ニューギニアやソロモンに展開する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]（米豪軍）と激戦を繰り広げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]となる[[リンドン・B・ジョンソン]]（当時[[下院]][[議員]]）が同乗していた[[B-26]]爆撃機を撃墜しかけるという逸話を残している（この逸話は特に米側では長く真実と受けとめられていたが、空戦事実こそ存在したものの、下院議員に同乗したとされるクルーへの聞き取りおよび飛行記録等から、政治的なプロパガンダ・宣伝による創作美談であり、事実とは異なる、あるいは同乗の事実なしとの指摘がその後なされている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソロモン、ラエでの活躍 ===&lt;br /&gt;
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の[[1942年]]（昭和17年）5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった[[西沢広義]]と[[太田敏夫]]の3人により、無断で[[ポートモレスビー]]のセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して[[笹井醇一]]から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 負傷と復帰 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Sakai wounded.jpg|233px|thumb|負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真]]&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ･“パグ”･サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。&lt;br /&gt;
そののち[[ガダルカナル島]]の上空において、坂井は[[SBD (航空機)|SBD]]ドーントレスの編隊を''「油断して直線飛行している」[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット]]の編隊''と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し（そのため左腕が麻痺状態にあった）計器すら満足に見えないという重傷を負った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした&amp;lt;ref&amp;gt;まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、[[ヤシ|椰子]]の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。また、この時の飛行を重巡洋艦「鳥海」から目撃した[[丹羽文雄]]は、著書「海戦」の中で、びっくりするほど低空を飛行していると記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後[[内地]]に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の[[目#人間の目|視力]]をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の[[第251海軍航空隊|251空]]（台南空を改称）に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には[[小園安名]]中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。[[1943年]]（昭和18年）2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で[[教官]]の任に就く、[[1943年]]（昭和18年）4月大村航空隊に異動、[[1944年]]（昭和19年）4月13日、[[横須賀海軍航空隊]]に配属された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 激戦を生き抜く ===&lt;br /&gt;
戦況の悪化、[[絶対国防圏]]の重要な一角であった[[サイパン島]]への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、[[1944年]]（昭和19年）6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、[[マリアナ沖海戦]]に勝利したばかりで、[[マリアナ諸島]]沖に展開の米海軍[[機動部隊]]（[[第38任務部隊|第58任務部隊）]]を攻撃することも視野に入れつつ、[[三沢基地]]で練成中だった[[第二五二海軍航空隊|第252航空隊]]他と共に、零戦の他に[[艦上攻撃機]][[天山_(航空機)|天山]]、[[艦上爆撃機]][[彗星_(航空機)|彗星]]他も含めて急遽編成された「[[八幡神|八幡]]空襲部隊」の傘下に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊の[[グラマン]][[F6F_(航空機)|F6F ヘルキャット]]戦闘機約70機が、[[航空母艦|空母]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]、空母[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]] 、空母[[バターン (空母)|バターン]]を発艦して硫黄島に来襲。これを[[レーダー]]探知して、横須賀空の25機、そして252空と[[第三〇一海軍航空隊|301空]]（戦闘601飛行隊）の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井の著書｢大空のサムライ｣の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった[[天山_(航空機)|天山]]8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は[[武藤金義]]飛曹長であった。&lt;br /&gt;
出撃前、横須賀空司令の[[三浦鑑三]]大佐より、｢本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。｣との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空[[特別攻撃隊|特攻]]命令が下されることになる。&lt;br /&gt;
攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。&lt;br /&gt;
坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜&amp;lt;ref&amp;gt;坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、｢御苦労だった。詳しくは明日聞こう｣の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機（内、横空零戦隊は9機）となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還：零戦10機　天山艦攻7機（内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機）。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではＦ6Ｆ1機『撃破』とされている。&lt;br /&gt;
この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。&lt;br /&gt;
山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
硫黄島から帰還後の[[1944年]]（昭和19年）8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「[[紫電改]]」を装備する[[第343海軍航空隊|第三四三航空隊]]（2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空）戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。[[1945年]]（昭和20年）7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の[[武藤金義]]少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍の[[エーリヒ・ハルトマン]]も1機撃墜（搭乗員は生還）されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦最後の空戦 ===&lt;br /&gt;
[[ポツダム宣言]]受諾後の[[1945年]]（昭和20年）[[8月17日]]、アメリカ軍をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による占領下の[[沖縄県|沖縄]]の基地から日本本土[[偵察]]のために飛来した[[B-32_(航空機)|B-32]]ドミネーター2機と日本海軍機が[[房総半島]]から[[伊豆諸島]]の上空で交戦した[[第二次世界大戦]]最後の[[空中戦]]に坂井も参加している。この迎撃には、紫電改の他に零戦が準備されたが、坂井は紫電改には目もくれずに[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦52型]]で迎撃に上がった。また、この時に飛来した機を日本側は新型のB-32であるとは知らず、判明したのは戦後である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた（この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の[[戦死]]者）。戦後、坂井はこの件で[[戦争犯罪人]]として訴追されることを懸念していたようだが、18日の時点では日本は正式に[[降伏]]していなかったこと（降伏文書調印は[[9月2日]]）、[[爆撃機]]への迎撃であり[[正当防衛]]といえること等から[[国際法]]上問題無しとされ、この件で戦後連合国軍より何ら追及されることはなかった。余談だが、この交戦に参加した[[小町定]]は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をしている為、零戦で離陸した坂井は攻撃が出来なかったと言う説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「大空のサムライ」としての戦後 ===&lt;br /&gt;
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる[[戦記]]『[[大空のサムライ]]』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の欧米では、戦争中の[[プロパガンダ]]の影響もあって、[[日本人]]に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、[[イラク治安部隊#空軍|イラク空軍]]では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞　2004年8月17日付国際面記事&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。[[P-51 (航空機)|P-51ムスタング]]を操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返り{{要出典|date=2011年03月}}までやってみせた。これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。ただし当人はかなり無理をしており、歳には勝てないと慨嘆した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を[[藤岡弘]]が演じ企画を映画[[岸壁の母]]の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を[[東宝]]が担当、[[1976年]]（昭和51年）に映画化された（[[丸山誠治]]監督作品。[[特撮]]監督は[[川北紘一]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]（平成12年）9月22日、[[厚木基地]]で催された[[アメリカ海軍]]西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 坂井の戦術 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Lentaja.jpg|233px|thumb|日中戦争での坂井]]&lt;br /&gt;
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から[[先制攻撃]]をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作『坂井三郎空戦記録』には、昼間の星の見方が詳しく述懐されている他、坂井は自らの視力向上のため、昼間に星を見つける訓練を日々繰り返していた旨も記述されている。星が見えたという真偽は定かではないが、視力2.5～3以上の視力を有する人間は昼間に一等星などの強い明るさを持つ星なら見ることが可能であり、また現代では40cm反射望遠鏡などの高倍率の望遠鏡を使用すれば、誰でも昼間星座観察などが可能である。&amp;lt;/ref&amp;gt;」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|title=大空のサムライ　坂井三郎氏　零戦を語る |url=http://www.youtube.com/watch?v=TRMcvq6DfKI&amp;amp;feature=player_embedded#at=19|accessdate=2011-6-1|publisher=Youtube}}&amp;lt;/ref&amp;gt;の割合で索敵するとも言う（坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの[[西沢広義]]は水平線より下の索敵を得意としていたらしい）。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト（巴戦）より[[一撃離脱戦法|一撃離脱]]の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている（そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが）。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。&lt;br /&gt;
加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、（スコアでは坂井に及ばない事から）恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機（小隊の2・3番機）の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた（そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「（空戦では）撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し（1000馬力は1000馬力しか出ない）、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[特別攻撃隊|特攻作戦]]については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと[[大本営]]は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[加藤寛一郎]]によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- &amp;lt;このセクションは真偽不明（出典無き為）。それゆえ、一時的にコメントアウトする&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;コメントアウトを外す人は、必ず出典を明記する必要がある&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作の評価 ==&lt;br /&gt;
『大空のサムライ』は[[ゴーストライター]]（当時の光人社社長）による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。&lt;br /&gt;
ちなみに光人社社長（当時。高城肇）との共著は「続々大空のサムライ　撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゴーストライターの真意 ===&lt;br /&gt;
「零戦の会」の副会長「[[神立尚紀]]」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「[[武道通信]]」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「[[渡辺洋二]]」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、[[東京大学]]名誉教授の[[加藤寛一郎]]の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに？」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している（加藤寛一郎　『飛行の秘術のはなし』　講談社〈文庫〉、1999年、178頁）。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人の[[ノンフィクション]]作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった（坂井の作品には多くの[[フィクション]]が含まれている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 士官との対立 ===&lt;br /&gt;
著作内には、大東亜戦争における日本海軍上層部の杜撰な作戦計画や戦況判断の甘さに対する批判も多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、戦時中、一戦闘機搭乗員にすぎなかった坂井は海軍上層部の行動を知りうる立場には当然無く、後にアメリカの軍人から「士官が集まる場所は日時が大体決まっていたから、そこへ間諜を送って情報を得ていた」と知り愕然となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、当時の日本海軍における、[[士官]]の[[エリート]]意識による[[下士官]]への傲慢な態度や、士官と下士官との間での待遇の差に対する批判も多くの著作内でなされた。それゆえ、戦後は[[海軍兵学校]]出身の元搭乗員を中心として、多くの敵を作ったのも事実である。実際、旧海軍人のパーティに招かれた際「海軍は本当に良いところでしたね」と話しかけてきた元海軍士官に「とんでもない！あんな所は二度とご免です」と回答したと生前語っており。朋輩の兵曹が大尉になじられたのを発端に大尉の殺害計画を練り、衛兵伍長に諭されて未遂に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは坂井が一水兵から成り上がり、毎晩軍艦の喫水線下で繰り広げられた残酷な私刑に耐え、また歴戦の下士官たる先任搭乗員として軍に仕えた目から見て、[[イギリス]]の階級社会に範をとった海軍様式の生活に嫌気が差してのことを考えるとかなり同情の余地がある。戦地に於いても食事と環境の彼我の差に鬱屈していた坂井は、主計兵に殴られた部下の報復として南部拳銃を発砲し士官の食料を強奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、坂井は終戦前には士官に昇進したが、下士官からのたたき上げである彼は「特務士官」と称され、士官の社交から「卑しき分際」とされて扱われたことに関して大いに不満があったことを、零戦の機首に仕込まれた優秀な機関銃の設計者が特務士官であったことを例にとり、彼の著書に記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし誇張された対立関係は、後の戦記や社会一般のイメージにもにも多大な影響を与え、士官・下士官ともに評判は著しくない。また[[源田実]]没後に、源田を含めた士官批判が特に増えた事も問題視されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他の搭乗員の評価 ===&lt;br /&gt;
彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、「戦争を売り物にしている」という批判に対し坂井は心を痛めていたらしい。彼の処女作である「坂井三郎空戦記録」は出版社（出版協同社）が倒産してしまったため、印税はすべて不渡りになってしまった。手形割引である程度の収入を得ることも出来たのだが「別に残念と思わなかった」上に、本を出版してくれた社長に対する恩義のため、あえて相当の処置はしなかったらしい。ミリオンヒットの海外出版版「SAMURAI」も契約不履行でほとんど収入は入らなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし「戦争を売り物にしている」と言う意味は、坂井が海軍航空隊のエース（海軍に[[エースパイロット]]は存在しない）と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している点である。また坂井の負傷による本土帰還後に、もっとも壮絶な航空戦に突入した事も、同僚が坂井を評価できない理由である。また「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く（緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である）、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。&lt;br /&gt;
&amp;lt;このセクションは真偽不明（出典無き為）。それゆえ、一時的にコメントアウトする&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;コメントアウトを外す人は、必ず出典を明記する必要がある&amp;gt; --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逸話 ==&lt;br /&gt;
=== 大型輸送機を見逃す ===&lt;br /&gt;
1942年初頭、[[オランダ領東インド]]（今の[[インドネシア|インドネシア共和国]]）・[[ジャワ島]]の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載した[[オランダ軍]]の大型輸送機（坂井は[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-4]]と回想しているが実際には[[DC-3]]と思われる）に遭遇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、当該エリアを飛行する敵国機（飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない）は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、[[青山学院]]中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍[[看護師|看護婦]]が、「あのパイロットに会いたい」と[[赤十字]]等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空の要塞を初撃墜 ===&lt;br /&gt;
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられた[[ボーイング]][[B-17]]爆撃機を[[枢軸国|枢軸国軍]]側兵士として初めて撃墜した1人とされている（共同撃墜）。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝（[[ヒラヌマ|戦艦ヒラヌマ]]撃沈発表）が流布された。ただし、現在確認できる当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名は記載されてはいない為、坂井が実際にこの戦闘に参加していたかどうか疑問視する意見もある一方、東京支局長との会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド･ストライプス」に発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Microsoft Combat Flight Simulator 2 ===&lt;br /&gt;
晩年には、[[マイクロソフト]]で発売された『[[Microsoft Combat Flight Simulator]] 2』（[[フライトシミュレータ]]）の日本側の考証を務めていた。完成の暁には、アメリカ軍側の考証を務めた元アメリカ軍パイロットとの空中戦も予定されていたが、完成を見る前に他界した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
晩年、『[[朝まで生テレビ]]』に坂井が出演したことがある。その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわすと、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。ただし、現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、暇な時に懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の彼の愛車、[[日産・スカイライン|スカイライン]]GTを引き合いに出され、「[[自動車]]と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方が良いに決まっています。車はバックが出来ますから」&amp;lt;ref&amp;gt;この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由で[[ユーノス・ロードスター]]を愛車としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた[[水木しげる]]に「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描く事ができず苦労したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な著作・考証 ==&lt;br /&gt;
=== 著作 ===&lt;br /&gt;
*『坂井三郎空戦記録』&lt;br /&gt;
*『大空のサムライ』正･続･戦話&lt;br /&gt;
*『零戦の真実』&lt;br /&gt;
*『零戦の運命』&lt;br /&gt;
*『零戦の最後』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さかいさふろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1916年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2000年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国海軍搭乗員]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Saburō Sakai]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sakai_Lentaja.jpg&amp;diff=163326</id>
		<title>ファイル:Sakai Lentaja.jpg</title>
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				<updated>2012-07-10T16:35:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 日中戦争での坂井三郎

原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lentaja.jpg

ライセンス：日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)19&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;日中戦争での坂井三郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lentaja.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ライセンス：日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)1946年（昭和21年）以前に撮影（製作）され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
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				<updated>2012-07-10T16:28:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 1942年8月7日、ガダルカナル上空で被弾・負傷し、ラバウルに帰還した直後の坂井三郎。

原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_wounded.jpg

ライセンス:日本を法管轄とするこの写真画像は、(1&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1942年8月7日、ガダルカナル上空で被弾・負傷し、ラバウルに帰還した直後の坂井三郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_wounded.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ライセンス:日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)1946年（昭和21年）以前に撮影（製作）され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sakai_Cockpit_A5M.jpg&amp;diff=163324</id>
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				<updated>2012-07-10T16:19:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1939年、96式艦上戦闘機の操縦席の坂井三郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_Cockpit_A5M.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ライセンス： 日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)1946年（昭和21年）以前に撮影（製作）され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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				<updated>2012-07-10T16:19:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 1939年、95式艦上戦闘機の操縦席の坂井三郎

原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_Cockpit_A5M.jpg

ライセンス： 日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1939年、95式艦上戦闘機の操縦席の坂井三郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原典：http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_Cockpit_A5M.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ライセンス： 日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)1946年（昭和21年）以前に撮影（製作）され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sakai_as_young_pilot.jpg&amp;diff=163322</id>
		<title>ファイル:Sakai as young pilot.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sakai_as_young_pilot.jpg&amp;diff=163322"/>
				<updated>2012-07-10T16:13:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 1939年、漢口基地での坂井三郎。
原典：http://www.flyandrive.com/images/saburo_sakai/sakaijeune01.jpg
via:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_as_young_pilot.jpg

ライセンス:日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;1939年、漢口基地での坂井三郎。&lt;br /&gt;
原典：http://www.flyandrive.com/images/saburo_sakai/sakaijeune01.jpg&lt;br /&gt;
via:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_as_young_pilot.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ライセンス:日本を法管轄とするこの写真画像は、(1)1956年（昭和31年）12月31日までに公表（発行）された。または、(2)1946年（昭和21年）以前に撮影（製作）され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%91%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%8A&amp;diff=163304</id>
		<title>葵みのり</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%91%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%8A&amp;diff=163304"/>
				<updated>2012-07-09T17:26:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''葵 みのり'''（あおい みのり、[[1980年]][[3月28日]] - ）は、[[日本]]の[[AV女優]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東京都]]出身。[[1999年]]から[[2001年]]にかけて活動した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[1999年]]2月、[[メディアステーション|宇宙企画]]より『純心』で[[アダルトビデオ|AV]]デビュー。[[バンビプロモーション]]に所属していた。個性的な[[ロリータ]]フェイスに少女っぽさを感じさせるスレンダーボディ、やや舌足らずなしゃべり方で、ロリポップ路線のAV女優として人気を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
AVデビュー後も『[[クリーム (雑誌)|クリーム]]』のような[[お菓子系アイドル]]雑誌にグラビアが掲載されたことがあったが、活動後期のAV、写真集では作為的なロリータ路線は払拭されている。AVでは過度にハードな演出はなされず、[[インディーズ]]作品への出演もなかった。[[2000年]]に一時引退状態になったあと、[[2001年]]3月に『葵みのり・裏仕事』で復帰したが、短期間でAV業界から身を引いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]]、ファッション誌『[[アンアン]]』に本人と酷似した人物が掲載されたことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]10月に[[中華人民共和国|中国]]・[[蘇州市]]で行なわれた「第二回世界健康都市連盟大会」の屋外広告に、出演作のパッケージ写真が無断使用され、国営通信社・[[新華社]]をはじめとする現地の大手メディアが大々的に報じる事態が起きた。&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/society/2006-11/01/content_5276015.htm 日本AV女優宣伝画惹争議 蘇州城管已拆除]」『[[新華社|新華社（電子版）]]』2006年11月1日。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;（新華社の引用元）「国際会議請色情女優『代言』」『[[:zh:南方都市报|南方都市報]]』2006年11月1日。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品 ==&lt;br /&gt;
=== アダルトビデオ ===&lt;br /&gt;
* 純心（1999年2月28日、[[メディアステーション|宇宙企画]]）&lt;br /&gt;
* ベイビーキッス（1999年3月28日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* 夢見るセーラー（1999年4月25日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* ANGEL（1999年5月18日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* びしょ濡れアリスちゃん（1999年6月6日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* 潮吹き乙女 半熟妻（1999年8月31日、[[h.m.p|for you]]）&lt;br /&gt;
* 姫奴隷（1999年9月22日、for you）&lt;br /&gt;
* ぐりぐりマンボ（1999年10月26日、for you）&lt;br /&gt;
* 生狂い（1999年11月30日、for you）&lt;br /&gt;
* ハードコアに犯されて（1999年12月25日、for you）&lt;br /&gt;
* ぶっとい注射がスキなのよ（2000年1月15日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* 乙女ざかり 8（2000年2月4日、[[マックス・エー|サマンサ]]）&lt;br /&gt;
* コスプレマニア Fetish Virgin IV（2000年3月6日、サマンサ）&lt;br /&gt;
* 女尻（2000年4月21日、[[JHV|アリスJAPAN]]）&lt;br /&gt;
* 激唇（2000年5月15日、[[アトラス21|アトラス]]）&lt;br /&gt;
* 葵みのり・裏仕事（2001年3月18日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* 監禁遊戯（2001年4月15日、宇宙企画）&lt;br /&gt;
* タマにはしゃぶりたい（2001年6月22日、[[トライハートコーポレーション|セクシア]]）&lt;br /&gt;
* 恋愛論（2001年7月20日、セクシア）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イメージビデオ ===&lt;br /&gt;
* 天使のブルマー（美少女EROS恋写館 65）（1999年6月、[[英知出版]]）&lt;br /&gt;
* みのりがいっぱい（美少女EROS恋写館 100）（2001年8月10日、[[バウハウス (出版)|バウハウス]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 書籍 ==&lt;br /&gt;
=== 写真集 ===&lt;br /&gt;
* 胸さわぐ、…「エピソード」（1999年5月30日発行、[[斉木弘吉]]、英知出版）&lt;br /&gt;
* flowers（w / [[堀内ナナ]]）（1999年9月8日発行、渡辺達生、TIS）&lt;br /&gt;
* TENNYO 1（2000年6月15日発行、宮澤正明、英知出版）&lt;br /&gt;
* Juice（2001年8月5日発行、西條彰仁、[[メディアステーション|メディアックス]]）&lt;br /&gt;
* アオイソラノムコウ.（2001年12月29日発行、[[斉木弘吉]]、[[竹書房]]）&lt;br /&gt;
* らぶぱら「カノジョに初めて会った日、好きで好きでひとり占めしたくなった…。」（2002年2月1日発行、斉木弘吉、竹書房）&lt;br /&gt;
* 葵みのりのヰタセクスアリス　（2003年7月5日発行、斉木弘吉、竹書房）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[東京都出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[AV女優一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あおい みのり}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本のAV女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1980年生]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Minori Aoi]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC&amp;diff=163298</id>
		<title>キーボードクラッシャー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC&amp;diff=163298"/>
				<updated>2012-07-09T14:41:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''キーボードクラッシャー'''は、[[2002年]]に[[動画共有サービス]]の[[YouTube]]に投稿された、[[Unreal Tournament|Unreal Tournament]]に熱中しすぎて[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を乱打し破壊してしまうという[[動画]]に出演している、[[ドイツ人]]の少年につけられた[[あだ名]]ならびにその少年が出演している動画のシリーズのことである。&lt;br /&gt;
省略される場合は『クラッシャー』となる。他のあだ名には「'''ドイツの少年'''」、「'''ドイツ製[[VOCALOID]]'''」、&lt;br /&gt;
イニシャルを取った「'''KBC'''」などがあり、英語圏では「Crazy German kid」や「Angry German kid」などと呼ばれている。&lt;br /&gt;
彼の過剰な喜怒哀楽の感情表現、特に怒りに任せてキーボードを破壊する異常なほどの暴れっぷりや、彼のドイツ語が空耳として日本語や英語に聞こえるということで話題になり、YouTubeや[[ニコニコ動画]]などの動画共有サービスで様々な[[MADムービー]]（空耳など）が作られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年1月17日現在、[[匿名掲示板]][[2ちゃんねる]]にある[[YouTube板]]のバナーは彼の画像になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://www.youtube.com/watch?v=e_lwt_H5vjE&amp;amp;locale=en_US&amp;amp;persist_locale=1 キーボードクラッシャーの映像]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主な楽曲==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
#[[魔理沙は大変なものを盗んでいきました|クラッシャーは大変なキーボードを破壊していきました]]&lt;br /&gt;
#[[ドラえもん|クラえもんのうた]]&lt;br /&gt;
#[[もってけ!セーラーふく|もってけ!キーボード]]&lt;br /&gt;
#[[もじぴったん|たぴ・ぱん]]&lt;br /&gt;
#[[涼宮ハルヒの憂鬱|鍵盤、破壊、独逸にて]]&lt;br /&gt;
#[[患部で止まってすぐ溶ける|ドイツで止まってすぐ壊す ～ 狂気のキーボードクラッシャー]]&lt;br /&gt;
#[[スパイダーマン|駆けろ!タピオカパン]]&lt;br /&gt;
#[[頭がパーン|タピオカ☆パーン]]&lt;br /&gt;
#[[武装錬金|真っ赤なキーボード]]&lt;br /&gt;
#[[こどものじかん|キボクラのじかん]]&lt;br /&gt;
#[[ブラックラグーン|ブラックラッシャー]]&lt;br /&gt;
#[[U.N.オーエンは彼女なのか?|K.B.クラッシャーは何者なのか？]]&lt;br /&gt;
#[[涼宮ハルヒの憂鬱|キボクラユカイ]]&lt;br /&gt;
#[[みなみけ|キーボード上昇中☆]]&lt;br /&gt;
#[[撲殺天使ドクロちゃん|鍵壊天使クラッシャちゃん]]&lt;br /&gt;
#[[windowsvs キーボードクラッシャー]]&lt;br /&gt;
#[[この時代の別居中の三人兄弟を、あの世の、対立する二人に還元する論法が分からねば聞かなくていいわ。*2]]&lt;br /&gt;
#[[キテレツ大百科|はじめての破壊]]&lt;br /&gt;
#[[アンパンマン|クラパンマンのマーチ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== MADムービーの傾向 ==&lt;br /&gt;
キーボードクラッシャーのMADムービーには元の動画の字幕を本来の訳や空耳ではない字幕にしてそのまま使うものや、キーボードクラッシャーが[[スーパーマリオブラザーズ]]などをやるストーリー系のものや音楽にあわせて[[台詞]]を入れた音楽系ものなどがある。ストーリー系の映像ではたいていの場合、パソコンがフリーズする、ゲームに負けるなどしてバッドエンドで終わることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ストーリー系では、[[ゴシック体]]の白色字幕が使われることが多い。この理由としては、有名になった空耳MADの名残や、そのMADとの相関性を持たせるためという説が有力である。有名になった日本語の空耳MADとの関連性は不明だが、英語圏のストーリー系MADでも同じくゴシック体の白色字幕が使われることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
音楽系では本来のキーボードクラッシャーの一番最後の部分が使われることが多い。&lt;br /&gt;
また、[[ニコニコ動画]]で主流のMADとして、既存の音楽などを(無理矢理)歌わせた「ドイツ製[[ボーカロイド]](「暴歌ロイド」とも)」シリーズ、「歌うクラッシャー」シリーズなどがある。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ネタバレ|スキップ=作動}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空耳MAD ===&lt;br /&gt;
彼の映像を日本語の空耳で聞きながら映像を見ると、彼の行動が日本語（または英語）にそぐ場面がいくつかあり、（あくまで空耳の一例であり、聞き方を変えれば聞こえ方も変わる。）これらの現象が彼の映像が有名になった一因でもある。&lt;br /&gt;
* 椅子に座りながら、「石橋釣り、[[ボス]]！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 机の上の物を手でぞんざいにどけながら大声で「[[パンパース]]まだー？どこー？」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* パソコンに向かって[[俗語]]を言った後「[[イスラエル]]に[[クイズタイムショック#ペナルティ|とっとと&lt;br /&gt;
スピーン]]！ローーース！！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* キーボードを出しながら「スタートから声変わったスピン！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* その直後、キーボードを「ガン！」と叩いて、「[[Spyware]]？What's？」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* ↑の後にキーボードを鷲づかみにして「[[ペルー]]は[[童貞]]ばっかやああぁぁぁぁぁ」または「スペルorゾネスof[[天空のブーン|プギャー]]！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
*荒々しい呼吸の後「Is作成したホイマフ、[[ローズ]]？」と言って机上の物をどかして整頓しながら「[[サメ|シャーク]][[煎餅|センベーイ]]！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 「ゴルァ！」と言って、しばらく経って「松下さん!」または「勃起してきたぜー！！」と言いながら両手で頭を抱えた後、またしても俗語を大声で叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 「[[いくら]][[売り]]にしたスピニィィィン！」「ホワァァァァァァァァァァァ！！」と叫んだ後喜びながら「イェア　死ね　&lt;br /&gt;
」と言う場面。&lt;br /&gt;
* 「[[やっけくそ]]ー！、やっけくそー♪」または「Yes Get Lost!×２」と歌いながら踊る場面。&lt;br /&gt;
* 「死ねー!」「どんべえちゃん！死ねええええええ！」と金切り声を挙げる場面。&lt;br /&gt;
* パソコンに向かって思いっきり「[[バイブ]]レーションじゃねぇ死ねー！！」と怒鳴る場面。&lt;br /&gt;
*「It's [[NEET]]. It's NEET. インスパイヤ[[ドット]]（ドン）[[ヘビ|スネーク]]。私ニート、バンダイ、モスバーガーと（俗語）バーガー！」と言う場面。&lt;br /&gt;
*「It's分離the関連fileとっかえ[[国内総生産|GDP]]D～！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 落ち着きながら「[[ポジティブ]]・・・アイツはポジティブ。[[ガス欠]]とかするな」と言う場面（英語圏のストーリー系MADでも空耳を意識してこの場面が使われることがある）。&lt;br /&gt;
*「素敵な朝」と言った後不気味な声で笑い、笑っている最中に「あーおっかしおっほっほ!」と言う場面。&lt;br /&gt;
* 「アーヒャッヒャ!」「アーーー！！[[アルカイダ]]！！（おっ母さん！とも）」「安藤お前か」「[[胃炎]]か」「ブッ飛ぶチャァァァンス」「[[アーウィン]]乗るのか！？」「よーしよし来い来い！さあ谷口パンツ！パンツ！！」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 自慢気に「どーうでしょう！[[少年サンデー]][[しょっぱい]]じゃん」と言う場面。&lt;br /&gt;
* キーボードを叩きつけながら「[[ナッパ]]のおかん」と言う場面。&lt;br /&gt;
* その後、マウスを叩きながら「イェアー！Is[[香港]]フォロー！ウオオオワアアアアア！」と言う場面。&lt;br /&gt;
* 彼が外した（というか壊した）キーボードの[[Escape]]キーを拾い上げる際に「[[先生]]・・大好き・・[[スノッペ]]・・大好き・・かも・・」「落ちた、壊した」と言う場面、Escapeキーを見つけた時に「落ちたよ畜生」（「終わった、畜生」とも）という場面、さらに後元の位置に填める際に「頭ん中修理して」という場面（キーボードの構造から「真ん中修理して」という聞き方もできる）。&lt;br /&gt;
* キーボードを直した後に笑いながら「[[テニスコート]]can Hear The インポ」「Isパンを買いに行く？」と言う場面。&lt;br /&gt;
* 「さぁ、秋の最新作待とう。休まず負傷してる妹おる　ガイナー！[[夜勤]]・ルッシュ！」という場面。&lt;br /&gt;
* そのあと、不安げに「ハードゲイ」「仕事してないでしょ？」「[[医者]]として威張ってんでしょ？」という場面。&lt;br /&gt;
* 「わぁ　こいつらって遅！[[運動会]][[プロテイン]][[パワー]]!」と叫ぶ場面。&lt;br /&gt;
* 「[[タピオカ]]パン!」と言い放つ場面。&lt;br /&gt;
* 「うさ子さんがとろける」と叫ぶ場面。この後、首を振りながら「いやあぁあぁあぁあぁあぁあぁ」と叫ぶ。&lt;br /&gt;
** 不安げに「朝ご飯[[ソーセージ]]だけ」「いっぱいのソーセージ炊きまし」と言う場面。&lt;br /&gt;
* 「[[天皇]]陛下バンザーイ!」と言いながら部屋を退散する場面（退散してから数秒後に映像が終了することから終わりの台詞としてふさわしいものとなっている「関連：[[バンザイクリフ]]」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 逆再生 ===&lt;br /&gt;
彼の映像を逆から再生する映像の空耳MAD（壊れたキーボードが元に戻っていくさまから「キーボード[[職人]]」と呼ばれる）も作られている。その動画で「[[春日|はるひ]]」と連呼しているように聞こえる場面がいくつかあり、「[[涼宮ハルヒ]]（すずみや-）」と言っているように聞こえる場面もあることから、彼が連呼している「はるひ」を[[涼宮ハルヒ]]と当てている人が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この映像にも日本語とそぐ行動がいくつかあるが、逆再生の映像が空耳MAD以外で使われることはほとんどない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://jp.youtube.com/watch?v=cEE3BT7gJNg キーボードクラッシャーの逆再生の映像]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ネタバレ終了}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他の動画 ==&lt;br /&gt;
彼はキーボードを乱打し破壊してしまう動画だけではなく、他にも様々な動画を投稿している。&lt;br /&gt;
その様々な動画の中で、「自分の祖先はドイツ人に殺されたから、ドイツ人を殴ると父親がご褒美に10ユーロくれる」というようなことを言っていたり、ドイツ人に見立てた牛のぬいぐるみを暴行したりするなどのドイツ人の侮辱行為をしている（それらの動画の中には、[[にこにこぷん]]の3匹のトリオの名前や「[[アンパンマン]]　is Fuck」と言っているように聞こえる場面がいくつかあるという）。&lt;br /&gt;
彼が学校で[[いじめ]]られてたのか、それとも[[選民思想]]なのかはわからないが、動画の中で歌を歌ったり、[[下ネタ]]を発言したり、コスプレをしていたりする辺りを見ると単にウケ狙いだと思われる。&lt;br /&gt;
現に、YouTubeのコメント欄でドイツ人らしき人から「病院連れて行け」「アホすぎてウケる」などのコメントが書き込まれており、ユーザーが反応するから本人も喜んで次々と[[アップロード]]しているのだと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.slikk.de.vu/ www.slikk.de.vu] - 彼の映像の一番最初に表示されるURL。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Internet-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きーほーとくらつしやー}}&lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82%E7%94%B7%E5%AD%90%E7%94%9F%E5%BE%92%E8%87%AA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=163297</id>
		<title>大津市男子生徒自殺事件</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82%E7%94%B7%E5%AD%90%E7%94%9F%E5%BE%92%E8%87%AA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=163297"/>
				<updated>2012-07-09T14:32:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: 大津市中2いじめ自殺事件へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#Redirect [[大津市中2いじめ自殺事件]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B1%E3%83%84%E6%AF%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&amp;diff=162752</id>
		<title>ケツ毛バーガー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B1%E3%83%84%E6%AF%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&amp;diff=162752"/>
				<updated>2012-07-03T10:53:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''ケツ毛バーガー'''（けつげばーがー）は毛深い人を言う猥褻な語。臀の肉をバンズ、黒い股間の毛をハンバーガーの具に見立てたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
流出した画像は[http://muraoka.site90.com/burger.html こちら]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''概要'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ketuge.jpg|thumb|400px|]]&lt;br /&gt;
[[三洋電機]]の男性社員が、ファイル共有ソフト「[[Share]]（シェア）」の暴露ウイルスに感染し、徳島県警少年課の交際女性のM字開脚を含む猥褻写真とメールより互いの本名などの個人情報が流出。三洋電機の内部資料も流出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[mixi]]内を本名で検索したら二人とも本名で登録してあった為、身元割れが起こった。女性が入ってるコミュの中には出身高校のコミュがあり、そのコミュに「亞問」と名乗る者が流出したことを書き込んだ。それは2006年10月にネットや夕刊紙を賑わせ、話題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2chにおいてはニュー速、祭り暴動化、亞問がコミュを立ち上げ暴れまくり、mixi運営暴走、亞問、強制削除か自主退会かは不明、事件関連コミュ削除となる。そして&lt;br /&gt;
ZAKZAKに記事掲載され、shareで画像流出事件に端を発し２ちゃんねるやミクシーに問題画像を貼り続けていた「亞門」なる人物がミクシーを強制退会させられた。 &lt;br /&gt;
このとき亞門は９００人以上のマイミクがパーになり、自業自得ながらミクシーの対応にブチ切れた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後亞門はミクシーで問題画像を貼りまくり、２ちゃんねるのニュー即にてミクシーをつぶす発言をし、再度アカウントをとってミクシーでコミュを作ると宣言。亞門がコミュを作る前にアンチ亞門コミュが先に立ち、アンチ亞門ホームページも登場する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2ch工作員の情報でmixiはマルチ商法、援助交際、犯罪自慢の温床と発覚。亜門は結局現れず新情報も無いまま、ニュー速でネカマ行為などmixi荒らしが始まる。mixi運営がアカウント削除に乗り出し、削除時、マイミクで繋がってる人も全てアカウント削除という暴走っぷりを利用し一般人を巻き込む自爆テロが多発、livedoorに記事が載った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''ケツ毛さんの経歴'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛バーガー　3.jpg|thumb|400px|ケツ毛さんのmixi]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1982.1.10　大阪府堺市にて誕生&lt;br /&gt;
*1988.4　堺市立登美丘南小学校入学 &lt;br /&gt;
*1994.3　堺市立登美丘南小学校卒業&lt;br /&gt;
*1994.4　堺市立登美丘中学校入学 &lt;br /&gt;
*1997.3　堺市立登美丘中学校卒業&lt;br /&gt;
*1997.4　大阪府立三国丘高等学校入学 &lt;br /&gt;
*2000.3　大阪府立三国丘高等学校卒業&lt;br /&gt;
*2000.4　大阪市立大学心理学部入学（人間行動学科 心理学教室） &lt;br /&gt;
*2004.3　大阪市立大学心理学部卒業&lt;br /&gt;
*2004.4　鳴門教育大学大学院入学（学校教育専攻 教育臨床コース） &lt;br /&gt;
*2006.3　鳴門教育大学大学院修了&lt;br /&gt;
*2006.4　徳島県警察本部就職（鳴門警察署）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''関連項目'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛バーガー　2.jpg|thumb|300px|]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[イッチー流出事件]]&lt;br /&gt;
*[[チンコルド監督]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''漫画によるあらすじ'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー1.jpg|300px|1]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー2.jpg|300px|2]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー3.jpg|300px|3]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー4.jpg|300px|4]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー5.jpg|300px|5]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー6.jpg|300px|6]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー7.jpg|300px|7]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー8.jpg|300px|8]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー9.jpg|300px|9]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー10.jpg|300px|10]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー11.jpg|300px|11]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー12.jpg|300px|12]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''その他画像'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛バーガー画像一部　19.jpg|300px|]][[Image:ケツ毛バーガー画像一部　26.jpg|300px|]][[Image:ケツ毛バーガー画像一部　28.jpg|300px|]][[Image:ケツ毛バーガー画像一部　34.jpg|300px|]][[Image:ケツ毛バーガー画像一部　36.jpg|300px|]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:2ちゃんねる|けつけは]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで白紙保護された記事|けつけはか]]&lt;br /&gt;
[[Category:仁義なきキンタマ|けつけはか]]&lt;br /&gt;
[[Category:2ちゃんねるでの祭り|けつけはか]]&lt;br /&gt;
[[Category:アクセス数の高い記事|けつけはか]]&lt;br /&gt;
[[Category:画像が多い記事|けつけはか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B1%E3%83%84%E6%AF%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&amp;diff=162751</id>
		<title>ケツ毛バーガー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B1%E3%83%84%E6%AF%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&amp;diff=162751"/>
				<updated>2012-07-03T10:52:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Tomos: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ウィキペディア白紙保護}}&lt;br /&gt;
'''ケツ毛バーガー'''（けつげばーがー）は毛深い人を言う猥褻な語。臀の肉をバンズ、黒い股間の毛をハンバーガーの具に見立てたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
流出した画像は[http://muraoka.site90.com/burger.html こちら]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''概要'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ketuge.jpg|thumb|300px|]]&lt;br /&gt;
[[三洋電機]]の男性社員が、ファイル共有ソフト「[[Share]]（シェア）」の暴露ウイルスに感染し、徳島県警少年課の交際女性のM字開脚を含む猥褻写真とメールより互いの本名などの個人情報が流出。三洋電機の内部資料も流出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[mixi]]内を本名で検索したら二人とも本名で登録してあった為、身元割れが起こった。女性が入ってるコミュの中には出身高校のコミュがあり、そのコミュに「亞問」と名乗る者が流出したことを書き込んだ。それは2006年10月にネットや夕刊紙を賑わせ、話題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2chにおいてはニュー速、祭り暴動化、亞問がコミュを立ち上げ暴れまくり、mixi運営暴走、亞問、強制削除か自主退会かは不明、事件関連コミュ削除となる。そして&lt;br /&gt;
ZAKZAKに記事掲載され、shareで画像流出事件に端を発し２ちゃんねるやミクシーに問題画像を貼り続けていた「亞門」なる人物がミクシーを強制退会させられた。 &lt;br /&gt;
このとき亞門は９００人以上のマイミクがパーになり、自業自得ながらミクシーの対応にブチ切れた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後亞門はミクシーで問題画像を貼りまくり、２ちゃんねるのニュー即にてミクシーをつぶす発言をし、再度アカウントをとってミクシーでコミュを作ると宣言。亞門がコミュを作る前にアンチ亞門コミュが先に立ち、アンチ亞門ホームページも登場する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2ch工作員の情報でmixiはマルチ商法、援助交際、犯罪自慢の温床と発覚。亜門は結局現れず新情報も無いまま、ニュー速でネカマ行為などmixi荒らしが始まる。mixi運営がアカウント削除に乗り出し、削除時、マイミクで繋がってる人も全てアカウント削除という暴走っぷりを利用し一般人を巻き込む自爆テロが多発、livedoorに記事が載った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''ケツ毛さんの経歴'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛バーガー　3.jpg|thumb|400px|ケツ毛さんのmixi]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1982.1.10　大阪府堺市にて誕生&lt;br /&gt;
*1988.4　堺市立登美丘南小学校入学 &lt;br /&gt;
*1994.3　堺市立登美丘南小学校卒業&lt;br /&gt;
*1994.4　堺市立登美丘中学校入学 &lt;br /&gt;
*1997.3　堺市立登美丘中学校卒業&lt;br /&gt;
*1997.4　大阪府立三国丘高等学校入学 &lt;br /&gt;
*2000.3　大阪府立三国丘高等学校卒業&lt;br /&gt;
*2000.4　大阪市立大学心理学部入学（人間行動学科 心理学教室） &lt;br /&gt;
*2004.3　大阪市立大学心理学部卒業&lt;br /&gt;
*2004.4　鳴門教育大学大学院入学（学校教育専攻 教育臨床コース） &lt;br /&gt;
*2006.3　鳴門教育大学大学院修了&lt;br /&gt;
*2006.4　徳島県警察本部就職（鳴門警察署）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''関連項目'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛バーガー　2.jpg|thumb|300px|]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[イッチー流出事件]]&lt;br /&gt;
*[[チンコルド監督]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=='''漫画によるあらすじ'''==&lt;br /&gt;
[[Image:ケツ毛ストーリー1.jpg|300px|1]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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=='''その他画像'''==&lt;br /&gt;
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[[Category:2ちゃんねる|けつけは]]&lt;br /&gt;
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		<author><name>Tomos</name></author>	</entry>

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