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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>清水馨八郎</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''清水 馨八郎'''（'''しみず けいはちろう'''、[[1919年]] - [[2015年]]5月4日）は、[[山梨県]]出身の[[都市学者]]。[[博士 (理学)|理学博士]]。専門は[[都市交通]]学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
大正8年、山梨県生まれ。[[東京文理科大学]](現筑波大学)[[理学部]][[地学|地学科]]卒。[[海軍兵学校]][[教官]]、[[千葉大学]]教育学部[[教授]]を経て、千葉大学[[名誉教授]]。[[旭日章|勲三等旭日中綬章]]。[[維新政党・新風]]講師、[[イオンド大学]]教授を兼任する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*右派（＝[[右翼]]）の論客として知られているが、清水の専門は都市工学であり、著書『侵略の世界史』では都市交通学の権威を自称する。つまり史学については一般常識以上を持っているわけではない。&lt;br /&gt;
*大東亜戦争は、産業革命・フランス革命に次ぐ大革命であり、その結果、アジアの植民地が無くなったと主張する。&lt;br /&gt;
*幕末は、日本が西洋勢力の植民地になる危機だったが、藩の利益を超えて団結したことが危機を救ったとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著書==&lt;br /&gt;
*愛国―目覚めよ日本愛せよ日本（[[ゴマブックス]]） ISBN 4907710534&lt;br /&gt;
*裏切りの世界史―この1000年、彼らはいかに騙し、強奪してきたか（[[祥伝社]]） ISBN 4396313640&lt;br /&gt;
*「教育勅語」のすすめ―教育荒廃を救う道（日新報道） ISBN 4817404574&lt;br /&gt;
*「白人(グローバル)スタンダード」という新たなる侵略（祥伝社） ISBN 4396611544&lt;br /&gt;
*侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか（祥伝社） ISBN 4396610734&lt;br /&gt;
*大東亜戦争の正体―それはアメリカの侵略戦争だった（祥伝社） ISBN 439661263X &lt;br /&gt;
*手の文化と足の文化―先端技術ニッポンの謎を探る（[[日本工業新聞社]]） ISBN 4819106449&lt;br /&gt;
*日本人が忘れてしまった「日本文明」の真価（祥伝社） ISBN 4396610866&lt;br /&gt;
*「日本文明」の真価―今、世界が注目する（祥伝社） ISBN 4396313144（「[[アインシュタインの予言]]」を採り上げている）&lt;br /&gt;
*破約の世界史―この1000年、白人はいかに騙し、裏切ったか（祥伝社） ISBN 4396611056&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:1919年生|しみす けいはちろう]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の地理学者|しみす けいはちろう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-13T06:38:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(当時22歳)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(当時21歳)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(当時20歳)、坂井(当時35歳)、坂本(当時20歳)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。田本と結城は少年院時代の知り合いであり、結城は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件の直前に破門されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21歳）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告が浮上した。4被告は女性を連れ東京まで逃走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
9月26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一審の[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定した。[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には、坂井に[[懲役|無期懲役]]、結城に役20年、坂本に懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯の坂井は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服役した。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]した。弁論で弁護側は死刑違憲論を展開し、田本被告と共犯者3人との均衡が取れないことを主張した。[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)は、死刑は違憲ではないとし、また冷酷、非情な犯行であり、金欲しさの動機、遺族の被害感情を考慮すると、反省があるとしても、死刑はやむを得ないとして田本竜也の死刑が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていた。やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。坂田は以前から職場に不満を持っており、上司が左遷されることを願って田本の頼みに応じたともいう。坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で懲役2年6ヶ月（求刑懲役3年）の実刑判決を受けた。控訴せず確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 規律違反事件 ==&lt;br /&gt;
2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに警告書及び要望書を提出。田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」（謹慎）と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は軽度な違反に対して処分が重すぎると抗議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(当時22歳)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(当時21歳)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(当時20歳)、坂井(当時35歳)、坂本(当時20歳)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。田本と結城は少年院時代の知り合いであり、結城は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件の直前に破門されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21歳）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告が浮上した。4被告は女性を連れ東京まで逃走する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
9月26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一審の[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定した。[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には、坂井に[[懲役|無期懲役]]、結城に役20年、坂本に懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯の坂井は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服役した。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]した。弁論で弁護側は死刑違憲論を展開し、田本被告と共犯者3人との均衡が取れないことを主張した。[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)は、死刑は違憲ではないとし、また冷酷、非情な犯行であり、金欲しさの動機、遺族の被害感情を考慮すると、反省があるとしても、死刑はやむを得ないとして田本竜也の死刑が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていた。やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。坂田は以前から職場に不満を持っており、上司が左遷されることを願って田本の頼みに応じたともいう。坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で懲役2年6ヶ月（求刑懲役3年）の実刑判決を受けた。控訴せず確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 規律違反事件 ==&lt;br /&gt;
2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに「警告書及び要望書」を出した。田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」（謹慎）と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は「比較的軽い規律違反に対して過酷な懲罰を科すことは許されない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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				<updated>2017-10-13T06:32:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(当時22歳)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(当時21歳)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(当時20歳)、坂井(当時35歳)、坂本(当時20歳)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。田本と結城は少年院時代の知り合いであり、結城は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件の直前に破門されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21歳）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
9月26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一審の[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定した。[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には、坂井に[[懲役|無期懲役]]、結城に役20年、坂本に懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯の坂井は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服役した。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]した。弁論で弁護側は死刑違憲論を展開し、田本被告と共犯者3人との均衡が取れないことを主張した。[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)は、死刑は違憲ではないとし、また冷酷、非情な犯行であり、金欲しさの動機、遺族の被害感情を考慮すると、反省があるとしても、死刑はやむを得ないとして田本竜也の死刑が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていた。やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。坂田は以前から職場に不満を持っており、上司が左遷されることを願って田本の頼みに応じたともいう。坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で懲役2年6ヶ月（求刑懲役3年）の実刑判決を受けた。控訴せず確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 規律違反事件 ==&lt;br /&gt;
2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに「警告書及び要望書」を出した。田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」（謹慎）と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は「比較的軽い規律違反に対して過酷な懲罰を科すことは許されない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E8%AA%98%E6%8B%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=346170</id>
		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-13T06:13:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。田本と結城は少年院時代の知り合いであり、結城は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件の直前に破門されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]した。弁論で弁護側は死刑違憲論を展開し、田本被告と共犯者3人との均衡が取れないことを主張した。[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)は、死刑は違憲ではないとし、また冷酷、非情な犯行であり、金欲しさの動機、遺族の被害感情を考慮すると、反省があるとしても、死刑はやむを得ないとして田本竜也の死刑が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていた。やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。坂田は以前から職場に不満を持っており、上司が左遷されることを願って田本の頼みに応じたともいう。坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で懲役2年6ヶ月（求刑懲役3年）の実刑判決を受けた。控訴せず確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 規律違反事件 ==&lt;br /&gt;
2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに「警告書及び要望書」を出した。田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」（謹慎）と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は「比較的軽い規律違反に対して過酷な懲罰を科すことは許されない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-11T06:35:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]したが、[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)にて田本竜也の死刑確定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていたが、やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。また坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で実刑判決を受けた。今回の脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E8%AA%98%E6%8B%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=346152</id>
		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-11T06:32:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]したが、[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)にて田本竜也の死刑確定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。脱獄事件調査中に、当時の所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後、飛び降り自殺。またAは懲戒免職となり、逃走援助未遂で実刑判決を受けた。今回の脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長（当時57）が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[熊本地方裁判所]]で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]](前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は[[上告]]したが、[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]](遠藤三雄裁判長)にて田本竜也の死刑確定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。脱獄事件調査中に、当時の所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後、飛び降り自殺。またAは懲戒免職となり、逃走援助未遂で実刑判決を受けた。今回の脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。また現職の拘置所長が飛び降り自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E9%9A%9B%E9%99%BD%E5%AD%90&amp;diff=346150</id>
		<title>野際陽子</title>
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				<updated>2017-10-11T03:38:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''野際 陽子'''（のぎわ ようこ、[[1936年]][[1月24日]] - [[2017年]][[6月13日]]）は、[[日本]]の女優、アナウンサー。	163cm、A型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1936年]][[1月24日]] 富山県富山市生まれ&amp;lt;ref&amp;gt;野際陽子『70からはやけっぱち』,KADOKAWA,2015&amp;lt;/ref&amp;gt;（注1)。3歳から東京に移住する。&lt;br /&gt;
杉並区立杉並第五小学校、立教女学院中学校・高等学校、1958年、[[立教大学]]文学部英米文学科卒業。&lt;br /&gt;
在学中にミス立教となる。&lt;br /&gt;
大学卒業後は、[[1958年]]（昭和33年）に[[日本放送協会|NHK]]に[[アナウンサー]]として入局。&lt;br /&gt;
1962年（昭和37年）3月にNHK退職。&lt;br /&gt;
TBS『女性専科』（TBS）の司会者となる。当初は午前11時からの15分番組で、暮らしの知恵のような情報番組であった。8月第3週のテーマは「真夏の昼の夢」野際アナの服装が、チャイナドレス、「NHKにこんな美人アナウンサーがいたのか？」と男性陣に注目される。それ以降、 女優として活動する。&lt;br /&gt;
1966年（昭和41年）2月、パリへ留学し、ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。&lt;br /&gt;
1968年（昭和43年）にテレビドラマ『キイハンター』出演。この番組で野際陽子は全国で知られるようになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/06/16/kiji/20170616s00041000034000c.html 野際陽子さん死去　ＮＨＫアナから転身“才色兼備”の先駆け],スポニチ,2017-06-16&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
1972年（昭和47年）、共演者千葉真一と婚約、翌年結婚。&lt;br /&gt;
1992年（平成4年）、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子の姑役。TBSドラマの常連となる。&lt;br /&gt;
1994年（平成6年）、千葉真一と離婚。&lt;br /&gt;
2014年（平成26年）、初期の肺腺癌と診断され手術。&lt;br /&gt;
2017年（平成29年）5月8日に肺炎を併発、同年6月13日に東京都内の病院で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(注1)Wikipediaでは出身が石川県河北郡津幡町となっている(2017年10月11日現在)がミスである、自著や講演で富山県出身を明言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:のきわ ようこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:立教大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1936年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E8%AA%98%E6%8B%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=346149</id>
		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-11T02:23:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裁判]]で共犯3人が田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]が控訴棄却、田本竜也は[[上告]]したが、[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]にてTの死刑確定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。脱獄事件調査中に、当時の所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後、飛び降り自殺。またAは懲戒免職となり、逃走援助未遂で実刑判決を受けた。今回の脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。また現職の拘置所長が飛び降り自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E8%AA%98%E6%8B%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=346148</id>
		<title>熊本大学生誘拐殺人事件</title>
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				<updated>2017-10-11T02:21:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊本大学生誘拐殺人事件'''（くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん）は、[[1987年]]、[[田本竜也]]ほか3名による[[殺害]]後、[[身代金]]を要求した[[誘拐]][[殺人]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が[[拘置所]]から職員と共謀して[[脱獄]]未遂事件を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誘拐事件 ==&lt;br /&gt;
1987(昭和62)年9月14日、熊本･玉名市の田本竜也(22)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(21)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(20)、坂井(35)、坂本(20)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太宰府]]から帰省中で[[熊本県]][[玉名市]]をドライブ中だった上田さんが、友達の女性（当時21）を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田本竜也は3人と共謀して、大学生（小学校時代の同級生）を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある[[小岱山]]の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。[[福岡県]][[久留米市]]内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。4被告は女性を連れ東京まで逃走。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。&lt;br /&gt;
捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裁判]]で共犯3人が田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定したが、[[1988年]]3月30日、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]は田本に[[死刑]]判決、共犯3人には[[懲役|無期懲役]]、懲役20年、懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯は[[控訴]]するが、他の2人は控訴せず服罪。&lt;br /&gt;
[[1991年]]3月26日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]が控訴棄却、田本竜也は[[上告]]したが、[[1998年]][[4月23日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]にてTの死刑確定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[9月18日]]、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は[[養子縁組]]により[[苗字]]を田本から春田へ[[改姓]]していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脱獄未遂事件 ==&lt;br /&gt;
[[上告]]中の[[1996年]]12月、[[福岡拘置所]]に[[勾留]]中の田本竜也が夜間、窓の[[鉄格子]]を切断しているのを[[刑務官|看守]]が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じたAが腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守が[[囚人]]の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。脱獄事件調査中に、当時の所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後、飛び降り自殺。またAは懲戒免職となり、逃走援助未遂で実刑判決を受けた。今回の脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が[[減給]]などの処分を受けた。また現職の拘置所長が飛び降り自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
* 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』（[[宝島社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[誘拐]]&lt;br /&gt;
* [[脱獄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまもとたいかくせいゆうかいさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の誘拐事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>野際陽子</title>
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				<updated>2017-10-11T01:58:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''野際 陽子'''（のぎわ ようこ、[[1936年]][[1月24日]] - [[2017年]][[6月13日]]）は、[[日本]]の女優、アナウンサー。	163cm、A型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1936年]][[1月24日]] 富山県富山市生まれ&amp;lt;ref&amp;gt;野際陽子『70からはやけっぱち』,KADOKAWA,2015&amp;lt;/ref&amp;gt;（Wikiでは石川県河北郡津幡町となっている(2017年10月11日現在)がミスである、自著で富山県出身を明言している)。3歳から東京に移住する。&lt;br /&gt;
杉並区立杉並第五小学校、立教女学院中学校・高等学校、1958年、[[立教大学]]文学部英米文学科卒業。&lt;br /&gt;
在学中にミス立教となる。&lt;br /&gt;
大学卒業後は、[[1958年]]（昭和33年）に[[日本放送協会|NHK]]に[[アナウンサー]]として入局。&lt;br /&gt;
1962年（昭和37年）3月にNHK退職。&lt;br /&gt;
TBS『女性専科』（TBS）の司会者となる。当初は午前11時からの15分番組で、暮らしの知恵のような情報番組であった。8月第3週のテーマは「真夏の昼の夢」野際アナの服装が、チャイナドレス、「NHKにこんな美人アナウンサーがいたのか？」と男性陣に注目される。それ以降、 女優として活動する。&lt;br /&gt;
1966年（昭和41年）2月、パリへ留学し、ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。&lt;br /&gt;
1968年（昭和43年）にテレビドラマ『キイハンター』出演。この番組で野際陽子は全国で知られるようになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/06/16/kiji/20170616s00041000034000c.html 野際陽子さん死去　ＮＨＫアナから転身“才色兼備”の先駆け],スポニチ,2017-06-16&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
1972年（昭和47年）、共演者千葉真一と婚約、翌年結婚。&lt;br /&gt;
1992年（平成4年）、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子の姑役。TBSドラマの常連となる。&lt;br /&gt;
1994年（平成6年）、千葉真一と離婚。&lt;br /&gt;
2014年（平成26年）、初期の肺腺癌と診断され手術。&lt;br /&gt;
2017年（平成29年）5月8日に肺炎を併発、同年6月13日に東京都内の病院で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:のきわ ようこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:立教大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1936年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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				<updated>2017-10-11T01:13:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''野際 陽子'''（のぎわ ようこ、[[1936年]][[1月24日]] - [[2017年]][[6月13日]]）は、[[日本]]の女優、アナウンサー。	163cm、A型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1936年]][[1月24日]] 富山県富山市生まれ&amp;lt;ref&amp;gt;野際陽子『70からはやけっぱち』,KADOKAWA,2015&amp;lt;/ref&amp;gt;（Wikiでは石川県河北郡津幡町となっている(2017年10月11日現在)がミスである、自著で富山県出身を明言している)。3歳から東京に移住する。&lt;br /&gt;
杉並区立杉並第五小学校、立教女学院中学校・高等学校、1958年、[[立教大学]]文学部英米文学科卒業。&lt;br /&gt;
在学中にミス立教となる。&lt;br /&gt;
大学卒業後は、[[1958年]]（昭和33年）に[[日本放送協会|NHK]]に[[アナウンサー]]として入局。&lt;br /&gt;
1962年（昭和37年）3月にNHK退職。&lt;br /&gt;
TBS『女性専科』（TBS）の司会者となる。当初は午前11時からの15分番組で、暮らしの知恵のような情報番組であった。8月第3週のテーマは「真夏の昼の夢」野際アナの服装が、チャイナドレス、「NHKにこんな美人アナウンサーがいたのか？」と男性陣に注目される。それ以降、 女優として活動する。&lt;br /&gt;
1966年（昭和41年）2月、パリへ留学し、ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。&lt;br /&gt;
1968年（昭和43年）にテレビドラマ『キイハンター』出演。この番組で野際陽子は全国で知られるようになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/06/16/kiji/20170616s00041000034000c.html 野際陽子さん死去　ＮＨＫアナから転身“才色兼備”の先駆け],スポニチ,2017-06-16&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
1972年（昭和47年）、共演者千葉真一と婚約、翌年結婚。&lt;br /&gt;
1992年（平成4年）、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子の姑役。TBSドラマの常連となる。&lt;br /&gt;
1994年（平成6年）、千葉真一と離婚。&lt;br /&gt;
2014年（平成26年）、初期の肺腺癌と診断され手術。&lt;br /&gt;
2017年（平成29年）5月8日に肺炎を併発、同年6月13日に東京都内の病院で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{}reflist}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:のきわ ようこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:立教大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1936年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>野際陽子</title>
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				<updated>2017-10-11T01:04:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''野際 陽子'''（のぎわ ようこ、[[1936年]][[1月24日]] - [[2017年]][[6月13日]]）は、[[日本]]の女優、アナウンサー。	163cm、A型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1936年]][[1月24日]] 富山県富山市生まれ&amp;lt;ref&amp;gt;野際陽子『70からはやけっぱち』,KADOKAWA,2015&amp;lt;/ref&amp;gt;（Wikiでは石川県河北郡津幡町となっている)。3歳から東京に移住する。&lt;br /&gt;
杉並区立杉並第五小学校、立教女学院中学校・高等学校、1958年、[[立教大学]]文学部英米文学科卒業。&lt;br /&gt;
在学中にミス立教となる。&lt;br /&gt;
大学卒業後は、[[1958年]]（昭和33年）に[[日本放送協会|NHK]]に[[アナウンサー]]として入局。&lt;br /&gt;
1962年（昭和37年）3月にNHK退職。&lt;br /&gt;
TBS『女性専科』（TBS）の司会者となる。当初は午前11時からの15分番組で、暮らしの知恵のような情報番組であった。8月第3週のテーマは「真夏の昼の夢」野際アナの服装が、チャイナドレス、「NHKにこんな美人アナウンサーがいたのか？」と男性陣に注目される。それ以降、 女優として活動する。&lt;br /&gt;
1966年（昭和41年）2月、パリへ留学し、ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。&lt;br /&gt;
1968年（昭和43年）にテレビドラマ『キイハンター』出演。&lt;br /&gt;
1972年（昭和47年）、共演者千葉真一と婚約、翌年結婚。&lt;br /&gt;
1992年（平成4年）、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子の姑役。TBSドラマの常連となる。&lt;br /&gt;
1994年（平成6年）、千葉真一と離婚。&lt;br /&gt;
2014年（平成26年）、初期の肺腺癌と診断され手術。&lt;br /&gt;
2017年（平成29年）5月8日に肺炎を併発、同年6月13日に東京都内の病院で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{}reflist}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:のきわ ようこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:立教大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1936年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''野際 陽子'''（のぎわ ようこ、[[1936年]][[1月24日]] - [[2017年]][[6月13日]]）は、[[日本]]の女優、アナウンサー。	163cm、A型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1936年]][[1月24日]] 富山県富山市生まれ&amp;lt;ref&amp;gt;野際陽子『70からはやけっぱち』,KADOKAWA,2015&amp;lt;/ref&amp;gt;（Wikiでは石川県河北郡津幡町となっている)。3歳から東京に移住する。&lt;br /&gt;
杉並区立杉並第五小学校、立教女学院中学校・高等学校、1958年、[[立教大学]]文学部英米文学科卒業。&lt;br /&gt;
在学中にミス立教となる。&lt;br /&gt;
大学卒業後は、[[1958年]]（昭和33年）に[[日本放送協会|NHK]]に[[アナウンサー]]として入局。&lt;br /&gt;
1962年（昭和37年）3月にNHK退職。&lt;br /&gt;
TBS『女性専科』（TBS）の司会者となる。当初は午前11時からの15分番組で、暮らしの知恵のような情報番組であった。8月第3週のテーマは「真夏の昼の夢」野際アナの服装が、チャイナドレス。それ以降、 女優として活動する。&lt;br /&gt;
1966年（昭和41年）2月、パリへ留学し、ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。&lt;br /&gt;
1968年（昭和43年）にテレビドラマ『キイハンター』出演。&lt;br /&gt;
1972年（昭和47年）、共演者千葉真一と婚約、翌年結婚。&lt;br /&gt;
1992年（平成4年）、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子の姑役。TBSドラマの常連となる。&lt;br /&gt;
1994年（平成6年）、千葉真一と離婚。&lt;br /&gt;
2014年（平成26年）、初期の肺腺癌と診断され手術。&lt;br /&gt;
2017年（平成29年）5月8日に肺炎を併発、同年6月13日に東京都内の病院で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{}reflist}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:のきわ ようこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:立教大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1936年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>百済</title>
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				<updated>2017-10-05T03:54:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''百済'''（くだら）は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年に建国され660年に滅亡されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 百済の歴史 ==&lt;br /&gt;
初代の[[温祚王]]は、[[高句麗]]の初代王東明聖王の息子と言われている。韓国に現存する最古の歴史書『三国史記』に、高句麗を建てた東明王の三子温祚が紀元前18年に百済を建国したと書かれる。温祚は兄の沸流とともに臣下を率いて南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築き建国した。&lt;br /&gt;
2代の[[多婁王]]は東北辺の靺鞨との戦いが続いた。63年には支配領域を娘子谷城まで広げた。&lt;br /&gt;
第8代の[[古爾王]](在位：234～286)のとき、246年に楽浪の辺境地域を攻撃するなど、中国の郡県の勢力と対立し、領域を広げた。三国のうち最も早く行政組織を整備し、官職に等級をつけ(16官等制度)等級により服の色を定めた。261年には行政機構の六佐平を設置し、律令を定めることにより統治組織を整備した。大規模な王城を築き、防備体制を構築した。 多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。&lt;br /&gt;
第13代[[近肖古王]](在位：346～375)の時代には、全羅道地域の馬韓勢力を統合して伽耶地域に進出しし、次第にその領域を南方に広げていった。高句麗の南進を阻止し、371年には自ら精兵3万人を率いて平壌城を攻撃して高句麗の故国原王を討ち取った。&lt;br /&gt;
369年には、[[倭国]]へ七支刀を贈っている。405年、百済の阿直岐、博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子（後の[[仁徳天皇]]）の教育を行った。&lt;br /&gt;
457年（大明元年）10月、第21代[[蓋鹵王]](在位 455年-475年)は宋の世祖より鎮東大将軍の爵号を受けた。&lt;br /&gt;
475年には都・[[漢城]](慰礼城、ソウル)を落とされ蓋鹵王は戦死した。&lt;br /&gt;
新羅に滞在していて難を逃れた[[文周王]]は都を熊津（現・忠清南道公州市）に遷した。&lt;br /&gt;
501年　東城王が暗殺され、[[武寧王]]が即位した。503年　百済武寧王は倭国に遣使した。&lt;br /&gt;
百済の聖王は538年、熊津（現・忠清南道公州市）から泗沘（現・忠清南道扶余郡）に遷都し、国号を南扶余と号した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡り百済に上陸し、百済の王都を占領した。[[義慈王]]は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。&lt;br /&gt;
倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余[[豊璋]]は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、これを殺害した。唐から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と[[白村江]]（白馬江）で戦ったが、大敗した。9月25日倭国は、亡命を希望する1万人とも言われる多くの百済貴族を船に乗せて出港した。豊璋は密かに高句麗に逃れた。668年に高句麗も唐に滅ぼされ、豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、その後の消息は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くたら}}&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在したアジアの国家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>百済</title>
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				<updated>2017-10-05T03:41:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''百済'''（くだら）は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年に建国され660年に滅亡されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 百済の歴史 ==&lt;br /&gt;
初代の[[温祚王]]は、[[高句麗]]の初代王東明聖王の息子と言われている。韓国に現存する最古の歴史書『三国史記』に、高句麗を建てた東明王の三子温祚が紀元前18年に百済を建国したと書かれる。温祚は兄の沸流とともに臣下を率いて南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築き建国した。&lt;br /&gt;
2代の[[多婁王]]は東北辺の靺鞨との戦いが続いた。63年には支配領域を娘子谷城まで広げた。&lt;br /&gt;
第8代の[[古爾王]](在位：234～286)のとき、246年に楽浪の辺境地域を攻撃するなど、中国の郡県の勢力と対立し、領域を広げた。三国のうち最も早く行政組織を整備し、官職に等級をつけ(16官等制度)等級により服の色を定めた。261年には行政機構の六佐平を設置し、律令を定めることにより統治組織を整備した。大規模な王城を築き、防備体制を構築した。 多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。&lt;br /&gt;
第13代[[近肖古王]](在位：346～375)の時代には、全羅道地域の馬韓勢力を統合して伽耶地域に進出しし、次第にその領域を南方に広げていった。高句麗の南進を阻止し、371年には自ら精兵3万人を率いて平壌城を攻撃して高句麗の故国原王を討ち取った。&lt;br /&gt;
369年には、[[倭国]]へ七支刀を贈っている。405年、百済の阿直岐、博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子（後の[[仁徳天皇]]）の教育を行った。&lt;br /&gt;
475年には都・[[漢城]]を落とされ、[[蓋鹵王]]が戦死した。新羅に滞在していて難を逃れた[[文周王]]は都を熊津（現・忠清南道公州市）に遷した。百済の聖王は538年都を熊津から泗沘（現・忠清南道扶余郡）に遷した。&lt;br /&gt;
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡り百済に上陸し、百済の王都を占領した。[[義慈王]]は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。&lt;br /&gt;
倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余[[豊璋]]は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、これを殺害した。唐から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と[[白村江]]（白馬江）で戦ったが、大敗した。9月25日倭国は、亡命を希望する1万人とも言われる多くの百済貴族を船に乗せて出港した。豊璋は密かに高句麗に逃れた。668年に高句麗も唐に滅ぼされ、豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、その後の消息は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くたら}}&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在したアジアの国家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>百済</title>
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				<updated>2017-10-05T02:52:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''百済'''（くだら）は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年に建国され660年に滅亡されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 百済の歴史 ==&lt;br /&gt;
初代の[[温祚王]]は、句麗の初代王東明聖王の息子と言われ、韓国に現存する最古の歴史書『三国史記』に、高句麗を建てた東明王の三子温祚が紀元前18年に百済を建国したと伝えられている。温祚は、兄の沸流とともに臣下を率いて南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築き建国した。&lt;br /&gt;
2代の[[多婁王]]は東北辺の靺鞨との戦いが続いた。63年には支配領域を娘子谷城まで広げた。&lt;br /&gt;
第8代の[[古爾王]](在位：234～286)のとき、246年に楽浪の辺境地域を攻撃するなど、中国の郡県の勢力と対立し、領域を広げた。三国の最も早く行政組織を整備し、官職に等級をつけ(16官等制度)等級により服の色を定めた。261年には行政機構の六佐平を設置し、律令を定めることにより統治組織を整備した。大規模な王城を築き、防備体制を構築した。 多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。&lt;br /&gt;
第13代[[近肖古王]](在位：346～375)の時代、全羅道地域の馬韓勢力を統合して伽耶地域に進出しし、次第にその領域を南方に広げていった。高句麗の南進阻止し、371年には自ら精兵3万人を率いて平壌城を攻撃して高句麗の故国原王を討ち取った。&lt;br /&gt;
369年には、倭国へ七支刀を贈っている。405年、百済の阿直岐,博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子（後の仁徳天皇）の教育を行った。&lt;br /&gt;
475年には都・漢城を落とされ、[[蓋鹵王]]が戦死した。新羅に滞在していて難を逃れた[[文周王]]は都を熊津（現・忠清南道公州市）に遷した。百済の聖王は538年都を熊津から泗沘（現・忠清南道扶余郡）に遷した。&lt;br /&gt;
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡り百済に上陸し、百済の王都を占領した。[[義慈王]]は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。&lt;br /&gt;
倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余[[豊璋]]は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害した。唐から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江（白馬江）で戦ったが、大敗した。9月25日倭国は、亡命を希望する1万人とも言われる多くの百済貴族を船に乗せて出港した。豊璋は密かに高句麗に逃れた。668年に高句麗も唐に滅ぼされ、豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、その後の消息は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くたら}}&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在したアジアの国家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>論語</title>
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				<updated>2017-10-04T03:56:49Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
孔子自身が自分の思想を体系的に記したものとはいえず、孔子の死後に弟子たちが孔子の言行や門人たちとの対話を編纂し、成立年代は不明であるものの、漢代頃に成立したとされている。日本には、応神天皇の16年(西暦28年)に、[[百済]]から伝来したといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした&amp;lt;ref&amp;gt;伊藤仁斎『論語古義』(六盟館,明治42年10月),1712年&amp;lt;/ref&amp;gt;。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする&amp;lt;ref&amp;gt;「伊藤仁斎『論語古 義』を読む（1）」千葉大学留学生センター紀要,巻2,pp.67-76,1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子は周王朝の基礎を築いた周公の政治を理想と考え。「徳治」と「仁政」を政治の原理とした。最も重視したのは「仁」である。。「仁」の正確な定義はないものの、人と人との間に自然に発する親愛の情であり、徳を徳たらしめるものとして思想の中心とした。「礼」は単なる形式ではなく、人間関係を維持するための規範と考え、「礼」を人間の内面の具体的な外形表現として位置付けた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、巧言令色、鮮矣仁(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子のたまわく、巧言令色、 鮮（すくな）し仁。&lt;br /&gt;
　先生が言われた｡人に気に入られるように、口先だけでうまいことを言って中身が伴わない人間には仁の徳はほとんどないのだと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政 第二)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 顔淵問仁。子曰克己復礼為仁(顔淵 第十二)&lt;br /&gt;
　顔淵、仁を問う。子曰わく、己れを克せめて礼に復えるを仁と為す。&lt;br /&gt;
　顔淵が仁は何かとたずねた｡先生はわが身をつつしんで、礼の規範にたちもどるのが仁であると言われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
全部で20編の構成である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%AB%96%E8%AA%9E&amp;diff=345962</id>
		<title>論語</title>
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				<updated>2017-10-04T03:44:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
孔子自身が自分の思想を体系的に記したものとはいえず、孔子の死後に弟子たちが孔子の言行や門人たちとの対話を編纂し、成立年代は不明であるものの、漢代頃に成立したとされている。日本には、応神天皇の16年(西暦28 年)に、[[百済]]から伝来したといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした&amp;lt;ref&amp;gt;伊藤仁斎『論語古義』(六盟館,明治42年10月),1712年&amp;lt;/ref&amp;gt;。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする&amp;lt;ref&amp;gt;「伊藤仁斎『論語古 義』を読む（1）」千葉大学留学生センター紀要,巻2,pp.67-76,1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子は周王朝の基礎を築いた周公の政治を理想と考え。「徳治」と「仁政」を政治の原理とした。最も重視したのは「仁」である。。「仁」の正確な定義はないものの、人と人との間に自然に発する親愛の情であり、徳を徳たらしめるものとして思想の中心とした。。「礼」は形式的なものではなく、「礼」は人間関係を維持するための規範として、「礼」を人間の内面の具体的な表現として位置付けた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、巧言令色、鮮矣仁(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子のたまわく、巧言令色、 鮮（すくな）し仁。&lt;br /&gt;
　先生が言われた｡「人に気に入られるように、口先だけでうまいことを言って中身が伴わない人間には仁の徳はほとんどないのだ」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政第二)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 顔淵問仁。子曰克己復礼為仁(顔淵第十二)&lt;br /&gt;
　顔淵、仁を問う。子曰わく、己れを克せめて礼に復えるを仁と為す。&lt;br /&gt;
　顔淵が仁をおたずねした｡先生はいわれたわが身をつつしんで、礼の規範にたちもどるのが仁である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
全部で20編の構成である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82&amp;diff=345765</id>
		<title>本因坊算砂</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本因坊算砂'''（ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日)）は、囲碁棋士。一世名人。本因坊家の始祖、すなわち初代[[本因坊]]でである。[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて活躍し、江戸、明治と囲碁の興隆が続いたのも、このような下地があったからといわれ、算砂の功績は日本の囲碁界の基礎を築いたことである。2004年、[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納輿三郎として京都長者町に生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の[[日淵]]上人に弟子入りして出家した。宗祖の[[日蓮]]、[[日朗]]が碁を愛好していたことを知り、仏法修行の傍ら囲碁将棋に励み、すぐに上達し敵がいなくなったとされている&amp;lt;ref&amp;gt;安藤如意『座隠談叢』関西囲碁会,明治43年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。寺の塔頭の一坊の「本因坊」で暮らしていたことより後に本因坊算砂と名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1578]](天正6年）、上洛した[[織田信長]]が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえら、これが「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/21521 信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂]NHK出版,2015-08-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1583年]()8月、算砂は天下人となった豊臣秀吉に仕え始める。&lt;br /&gt;
[[1585年]](天正13年)、[[豊臣秀吉]]は大競技会を開き、そこで優勝した算砂に、褒美として毎年米20石等給する旨の朱印状を授けた。&lt;br /&gt;
[[1587年]](天正15年）閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の[[奥平信昌]]が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものといわれる。&lt;br /&gt;
[[1588年]](天正16年)に[[豊臣秀吉]]御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。&lt;br /&gt;
[[1603年]](慶長8年）、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。算砂は50石五人扶持を賜ったが、後に天下統一を果たした家康から、終身三百石の扶持を受けた。&lt;br /&gt;
[[1603年]]、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。&lt;br /&gt;
後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。&lt;br /&gt;
[[1611年]](慶長16年）には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。&lt;br /&gt;
[[1623年]](元和9年)5月16日、高弟の中村道碩に碁所をゆずり、跡目の算悦のことを頼んだが、見込みがなければ排除しても差支えないとし、65歳の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*林元美（1778－1861）の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている&amp;lt;ref&amp;gt; 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。&lt;br /&gt;
*『兼見卿記』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。&lt;br /&gt;
 仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記しており、信長が碁に関心があったことを示す&amp;lt;ref&amp;gt;吉田兼見『兼見卿記』1575年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*『伝信録』(伝信録は1706年に5世本因坊道知の編んだ家元伝書)は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事&lt;br /&gt;
 一 五拾石五人扶持 本因坊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*墓所は京都[[寂光寺]]である。寂光寺は京都十六本山のひとつで、日蓮大聖人滅後196年後の1578（天正6）年、久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。1580（天正8）年、豊臣秀吉による聚楽第建築のため、寺町通竹屋町(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊、実教院、実成坊、詮量院、本成坊、玄立坊、本因坊の七塔頭を建て布教拠点としていた。1708（宝永5）年、京都の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失し、これにより現在の東山仁王門西入に移転した。&lt;br /&gt;
*1923年(大正12年）には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。&lt;br /&gt;
*[[寂光寺]]には、「碁道名人　第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://mainichi.jp/articles/20160106/dde/012/040/008000c 本因坊７０年の旅],毎日新聞,2016年1月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*次の有名な辞世の句がある。&lt;br /&gt;
 「碁なりせば劫を打っても活くべきに、死ぬるばかりは手もなかりけり」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である&amp;lt;ref&amp;gt;古作登『本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する : 囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の「伝説の棋士」』大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要,vol15, pp.215-240, 2013-06&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 3劫伝説 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1580）、日海は本能寺に逗留していた信長に請われ、鹿塩利玄と数局交えたところ、その中の一局に三劫が出現した。信長から退出してまもなく、鬨の声が挙がり本能寺は火に包まれた。以来、３劫は不吉の前兆とされている。本能寺の変のあと、算砂は暫くの間、寂光寺にこもり、信長の供養のためか法華三昧に身を委ねたと言われる。&lt;br /&gt;
古来 三劫の局 とされてきた棋譜は現在のプロの目から見ると三劫が発生する余地がない事が明らかになり、史実ではないものとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
*[[中村道碩]]（井上家元祖）&lt;br /&gt;
*[[安井算哲]]（安井家一世）&lt;br /&gt;
*[[本因坊算悦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ほんいんほう さんさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の囲碁棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1559年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>本因坊算砂</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本因坊算砂'''（ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日)）は、囲碁棋士。一世名人。本因坊家の始祖、すなわち初代[[本因坊]]でである。[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて活躍し、江戸、明治と囲碁の興隆が続いたのも、このような下地があったからといわれ、算砂の功績は日本の囲碁界の基礎を築いたことである。2004年、[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納輿三郎として京都長者町に生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の[[日淵]]上人に弟子入りして出家した。宗祖の[[日蓮]]、[[日朗]]が碁を愛好していたことを知り、仏法修行の傍ら囲碁将棋に励み、すぐに上達し敵がいなくなったとされている&amp;lt;ref&amp;gt;安藤如意『座隠談叢』関西囲碁会,明治43年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。寺の塔頭の一坊の「本因坊」で暮らしていたことより後に本因坊算砂と名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1578]](天正6年）、上洛した[[織田信長]]が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえら、これが「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/21521 信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂]NHK出版,2015-08-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1583年]()8月、算砂は天下人となった豊臣秀吉に仕え始める。&lt;br /&gt;
[[1585年]](天正13年)、[[豊臣秀吉]]は大競技会を開き、そこで優勝した算砂に、褒美として毎年米20石等給する旨の朱印状を授けた。&lt;br /&gt;
[[1587年]](天正15年）閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の[[奥平信昌]]が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものといわれる。&lt;br /&gt;
[[1588年]](天正16年)に[[豊臣秀吉]]御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。&lt;br /&gt;
[[1603年]](慶長8年）、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。算砂は50石五人扶持を賜ったが、後に天下統一を果たした家康から、終身三百石の扶持を受けた。&lt;br /&gt;
[[1603年]]、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。&lt;br /&gt;
後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。&lt;br /&gt;
[[1611年]](慶長16年）には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。&lt;br /&gt;
[[1623年]](元和9年)5月16日、高弟の中村道碩に碁所をゆずり、跡目の算悦のことを頼んだが、見込みがなければ排除しても差支えないとし、65歳の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*林元美（1778－1861）の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている&amp;lt;ref&amp;gt; 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。&lt;br /&gt;
*『兼見卿記』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。&lt;br /&gt;
 仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記しており、信長が碁に関心があったことを示す&amp;lt;ref&amp;gt;吉田兼見『兼見卿記』1575年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*『伝信録』(伝信録は1706年に世本因坊道知の編んだ家元伝書)は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事&lt;br /&gt;
 一 五拾石五人扶持 本因坊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*墓所は京都[[寂光寺]]である。寂光寺は京都十六本山のひとつで、日蓮大聖人滅後196年後の1578（天正6）年、久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。1580（天正8）年、豊臣秀吉による聚楽第建築のため、寺町通竹屋町(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊、実教院、実成坊、詮量院、本成坊、玄立坊、本因坊の七塔頭を建て布教拠点としていた。1708（宝永5）年、京都の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失し、これにより現在の東山仁王門西入に移転した。&lt;br /&gt;
*1923年(大正12年）には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。&lt;br /&gt;
*[[寂光寺]]には、「碁道名人　第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://mainichi.jp/articles/20160106/dde/012/040/008000c 本因坊７０年の旅],毎日新聞,2016年1月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*次の有名な辞世の句がある。&lt;br /&gt;
 「碁なりせば劫を打っても活くべきに、死ぬるばかりは手もなかりけり」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である&amp;lt;ref&amp;gt;古作登『本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する : 囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の「伝説の棋士」』大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要,vol15, pp.215-240, 2013-06&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 3劫伝説 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1580）、日海は本能寺に逗留していた信長に請われ、鹿塩利玄と数局交えたところ、その中の一局に三劫が出現した。信長から退出してまもなく、鬨の声が挙がり本能寺は火に包まれた。以来、３劫は不吉の前兆とされている。本能寺の変のあと、算砂は暫くの間、寂光寺にこもり、信長の供養のためか法華三昧に身を委ねたと言われる。&lt;br /&gt;
古来 三劫の局 とされてきた棋譜は現在のプロの目から見ると三劫が発生する余地がない事が明らかになり、史実ではないものとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
*[[中村道碩]]（井上家元祖）&lt;br /&gt;
*[[安井算哲]]（安井家一世）&lt;br /&gt;
*[[本因坊算悦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ほんいんほう さんさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の囲碁棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1559年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本因坊算砂'''（ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日)）は、囲碁棋士。一世名人。本因坊家の始祖、すなわち初代[[本因坊]]でである。[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて活躍し、江戸、明治と囲碁の興隆が続いたのも、このような下地があったからといわれ、算砂の功績は日本の囲碁界の基礎を築いたことである。2004年、[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納輿三郎として京都長者町に生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の[[日淵]]上人に弟子入りして出家した。宗祖の[[日蓮]]、[[日朗]]が碁を愛好していたことを知り、仏法修行の傍ら囲碁将棋に励み、すぐに上達し敵がいなくなったとされている&amp;lt;ref&amp;gt;安藤如意『座隠談叢』関西囲碁会,明治43年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。寺の塔頭の一坊の「本因坊」で暮らしていたことより後に本因坊算砂と名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1578]](天正6年）、上洛した[[織田信長]]が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえら、これが「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/21521 信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂]NHK出版,2015-08-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1583年]()8月、算砂は天下人となった豊臣秀吉に仕え始める。&lt;br /&gt;
[[1585年]](天正13年)、[[豊臣秀吉]]は大競技会を開き、そこで優勝した算砂に、褒美として毎年米20石等給する旨の朱印状を授けた。&lt;br /&gt;
[[1587年]](天正15年）閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の[[奥平信昌]]が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものといわれる。&lt;br /&gt;
[[1588年]](天正16年)に[[豊臣秀吉]]御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。&lt;br /&gt;
[[1603年]](慶長8年）、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。算砂は50石五人扶持を賜ったが、後に天下統一を果たした家康から、終身三百石の扶持を受けた。&lt;br /&gt;
[[1603年]]、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。&lt;br /&gt;
後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。&lt;br /&gt;
[[1611年]](慶長16年）には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。&lt;br /&gt;
[[1623年]](元和9年)5月16日、高弟の中村道碩に碁所をゆずり、跡目の算悦のことを頼んだが、見込みがなければ排除しても差支えないとし、65歳の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*林元美（1778－1861）の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている&amp;lt;ref&amp;gt; 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。&lt;br /&gt;
*『兼見卿記』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。&lt;br /&gt;
 仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記しており、信長が碁に関心があったことを示す&amp;lt;ref&amp;gt;吉田兼見『兼見卿記』1575年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*『伝信録』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事&lt;br /&gt;
 一 五拾石五人扶持 本因坊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*墓所は京都[[寂光寺]]である。寂光寺は京都十六本山のひとつで、日蓮大聖人滅後196年後の1578（天正6）年、久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。1580（天正8）年、豊臣秀吉による聚楽第建築のため、寺町通竹屋町(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊、実教院、実成坊、詮量院、本成坊、玄立坊、本因坊の七塔頭を建て布教拠点としていた。1708（宝永5）年、京都の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失し、これにより現在の東山仁王門西入に移転した。&lt;br /&gt;
*1923年(大正12年）には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。&lt;br /&gt;
*[[寂光寺]]には、「碁道名人　第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://mainichi.jp/articles/20160106/dde/012/040/008000c 本因坊７０年の旅],毎日新聞,2016年1月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*次の有名な辞世の句がある。&lt;br /&gt;
 「碁なりせば劫を打っても活くべきに、死ぬるばかりは手もなかりけり」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である&amp;lt;ref&amp;gt;古作登『本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する : 囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の「伝説の棋士」』大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要,vol15, pp.215-240, 2013-06&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 3劫伝説 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1580）、日海は本能寺に逗留していた信長に請われ、鹿塩利玄と数局交えたところ、その中の一局に三劫が出現した。信長から退出してまもなく、鬨の声が挙がり本能寺は火に包まれた。以来、３劫は不吉の前兆とされている。本能寺の変のあと、算砂は暫くの間、寂光寺にこもり、信長の供養のためか法華三昧に身を委ねたと言われる。&lt;br /&gt;
古来 三劫の局 とされてきた棋譜は現在のプロの目から見ると三劫が発生する余地がない事が明らかになり、史実ではないものとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
*[[中村道碩]]（井上家元祖）&lt;br /&gt;
*[[安井算哲]]（安井家一世）&lt;br /&gt;
*[[本因坊算悦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ほんいんほう さんさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の囲碁棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1559年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82&amp;diff=345757</id>
		<title>本因坊算砂</title>
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				<updated>2017-10-02T01:38:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本因坊算砂'''（ほんいんぼう さんさ、1559年(永禄2年)- 1623年6月13日( 元和9年5月16日)）は、囲碁棋士。一世名人。本因坊家の始祖、すなわち初代[[本因坊]]でである。[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代]]にかけて活躍し、江戸、明治と囲碁の興隆が続いたのも、このような下地があったからといわれ、算砂の功績は日本の囲碁界の基礎を築いたことである。2004年、[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1559年(永禄2年)、京都の舞楽宗家の加納與助の子・加納与三郎として京都長者町に生まれる。8歳の時に叔父で法華宗寂光寺開祖、初代住職の[[日淵]]上人に弟子入りして出家した。宗祖の[[日蓮]]、[[日朗]]が碁を愛好していたことを知り、仏法修行の傍ら囲碁将棋に励み、すぐに上達し敵がいなくなったとされている&amp;lt;ref&amp;gt;安藤如意『座隠談叢』関西囲碁会,明治43年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事し囲碁を習う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1578]](天正6年）、上洛した[[織田信長]]が寂光寺に立ち寄って僧・日海(本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒めたたえら、これが「名人」の用語の起源とされている。このとき算砂は19歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/21521 信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂]NHK出版,2015-08-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1583年]()8月、算砂は天下人となった豊臣秀吉に仕え始める。&lt;br /&gt;
[[1585年]](天正13年)、[[豊臣秀吉]]は大競技会を開き、そこで優勝した算砂に、褒美として毎年米20石等給する旨の朱印状を授けた。&lt;br /&gt;
[[1587年]](天正15年）閏11月13日、[[徳川家康]]は算砂を京都から駿府に招いた。家康家臣の[[奥平信昌]]が京都で算砂の碁の門下となり、帰国の際に駿府へ連れてきたものといわれる。&lt;br /&gt;
[[1588年]](天正16年)に[[豊臣秀吉]]御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。&lt;br /&gt;
[[1603年]](慶長8年）、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ江戸に赴いた。算砂は50石五人扶持を賜ったが、後に天下統一を果たした家康から、終身三百石の扶持を受けた。&lt;br /&gt;
[[1603年]]、日本初の囲碁の本『本因坊碁経』を刊行した。&lt;br /&gt;
後年日海の法名で法華宗寂光寺の二代目住職を務め、[[権大僧都]]の位に上った。&lt;br /&gt;
[[1611年]](慶長16年）には僧侶としての最高位の「法印」に叙せらた。&lt;br /&gt;
[[1623年]](元和9年)5月16日、高弟の中村道碩に碁所をゆずり、跡目の算悦のことを頼んだが、見込みがなければ排除しても差支えないとし、65歳の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*林元美（1778－1861）の著書『爛柯堂棊話』には、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の三武将と囲碁を通じて接したと記されている&amp;lt;ref&amp;gt; 林元美『爛柯堂棋話』平凡社,1978&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*優れた碁技と指導力で碁界の総仕切りをする碁所となる。&lt;br /&gt;
*『兼見卿記』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記しており、信長が碁に関心があったことを示す&amp;lt;ref&amp;gt;吉田兼見『兼見卿記』1575年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*『伝信録』は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 慶長十七壬子年、権現様より下置かれ候御切米御書出しの写碁打衆将棊指衆御扶持方給し候事&lt;br /&gt;
 一 五拾石五人扶持 本因坊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、本因坊算砂が徳川幕府より禄を得たことを示している。&lt;br /&gt;
*墓所は京都[[寂光寺]]である。&lt;br /&gt;
*1923年(大正12年）には、[[寂光寺]]で本因坊算砂300年祭の記念囲碁大会が開かれた。&lt;br /&gt;
*[[寂光寺]]には、「碁道名人　第一世本因坊算砂旧跡」の碑が設置されている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://mainichi.jp/articles/20160106/dde/012/040/008000c 本因坊７０年の旅],毎日新聞,2016年1月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*次の有名な辞世の句がある。&lt;br /&gt;
 「碁なりせば劫を打っても活くべきに、死ぬるばかりは手もなかりけり」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*最古期の棋譜は天正年間の本因坊算砂と利玄との対局である&amp;lt;ref&amp;gt;古作登『本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する : 囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の「伝説の棋士」』大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要,vol15, pp.215-240, 2013-06&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 3劫伝説 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1580）、日海は本能寺に逗留していた信長に請われ、鹿塩利玄と数局交えたところ、その中の一局に三劫が出現した。信長から退出してまもなく、鬨の声が挙がり本能寺は火に包まれた。以来、３劫は不吉の前兆とされている。本能寺の変のあと、算砂は暫くの間、寂光寺にこもり、信長の供養のためか法華三昧に身を委ねたと言われる。&lt;br /&gt;
古来 三劫の局 とされてきた棋譜は現在のプロの目から見ると三劫が発生する余地がない事が明らかになり、史実ではないものとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
*[[中村道碩]]（井上家元祖）&lt;br /&gt;
*[[安井算哲]]（安井家一世）&lt;br /&gt;
*[[本因坊算悦]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ほんいんほう さんさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の囲碁棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1559年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>大倉喜七郎</title>
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				<updated>2017-09-28T02:56:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大倉 喜七郎'''（おおくら きしちろう、[[1882年]][[6月16日]] - [[1963年]][[2月2日]]）は、[[大倉財閥]]2代目[[総帥]]。大倉組頭取、男爵、貴族院議員。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1882年(明治15年)6月16日、大倉財閥創始者の[[大倉喜八郎]]の長男として東京で生まれる。母は芸者の徳子(1855-)。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業。英ケンブリッジ大学に留学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1922年、父親の後任として帝国ホテル会長に就任した。1924年(大正13年)、大倉組頭取となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1924年]]の[[日本棋院]]設立時には経済面で貢献し、1946年まで日本棋院副総裁を務め名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞を1961年に創設。2006年に日本棋院[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
1928年（昭和3年）11月10日 - 勲三等瑞宝章。&lt;br /&gt;
1963年（昭和38年）2月2日、死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、公職追放を経て[[帝国ホテル]]社長への復帰を希望したが、それができないことが分かると、1958年に[[ホテルオークラ]]を創設した&amp;lt;ref&amp;gt;菊池浩之『日本の15大財閥』平凡社,2009&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 喜七郎妻 ==&lt;br /&gt;
妻は、溝口直正伯爵の娘(長女)久美子(1889-)である。伊藤公爵の媒酌にて結婚した。午後2時より披露のため赤坂葵町の本邸にて園遊会を開いた。来賓は名士千余名で、新夫人の知友として諸家の令嬢令夫人が加わり、近時まれに見る盛大なもので、&lt;br /&gt;
当日花嫁の衣装は黒の紋羽二重であったが、地模様は花菱で上品なものと言われる。裾模様は松に紅葉で雲を彩どり、帯は唐織で柳に橋の模様、地色は黄色で黒との映りがよかったとされる。&lt;br /&gt;
午後4時半に食堂が開かれ、その時には花嫁は衣装を着替え古代紫の振袖となった。裾模様はすべて能生の意匠であった。帯は綴織で、扇の模様が目立ちった。洋々たる奏楽とともに一同食堂にはいりましたが、&lt;br /&gt;
やがて末松謙澄男爵の発声でシャンパンの杯を挙げつつ新夫婦の万歳を唱えた。&lt;br /&gt;
花嫁は平民的に、来賓にビールのお酌をしていた。始終笑顔をもって客に接した。長男として大倉鶴吉(大倉喜六郎)、二女大倉正子、三女大倉てつ子が生まれる。&lt;br /&gt;
作家の子母澤寛は大蔵久美子は当時の美人の代表である[[九条武子]]、[[江木欣々]]と並ぶ美人であったと証言する&amp;lt;ref&amp;gt;子母澤寛『味覚極楽』中央公論新社,2004&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おおくら きしちろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:貴族院男爵議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:勲三等瑞宝章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1882年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1963年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>大倉喜七郎</title>
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				<updated>2017-09-28T02:53:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大倉 喜七郎'''（おおくら きしちろう、[[1882年]][[6月16日]] - [[1963年]][[2月2日]]）は、[[大倉財閥]]2代目[[総帥]]。大倉組頭取、男爵、貴族院議員。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1882年(明治15年)6月16日、大倉財閥創始者の[[大倉喜八郎]]の長男として東京で生まれる。母は芸者の徳子(1855-)。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業。英ケンブリッジ大学に留学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1922年、父親の後任として帝国ホテル会長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1924年]]の[[日本棋院]]設立時には経済面で貢献し、1946年まで日本棋院副総裁を務め名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞を1961年に創設。2006年に日本棋院[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
1928年（昭和3年）11月10日 - 勲三等瑞宝章。&lt;br /&gt;
1963年（昭和38年）2月2日、死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、公職追放を経て[[帝国ホテル]]社長への復帰を希望したが、それができないことが分かると、1958年に[[ホテルオークラ]]を創設した&amp;lt;ref&amp;gt;菊池浩之『日本の15大財閥』平凡社,2009&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 喜七郎妻 ==&lt;br /&gt;
妻は、溝口直正伯爵の娘(長女)久美子(1889-)である。伊藤公爵の媒酌にて結婚した。午後2時より披露のため赤坂葵町の本邸にて園遊会を開いた。来賓は名士千余名で、新夫人の知友として諸家の令嬢令夫人が加わり、近時まれに見る盛大なもので、&lt;br /&gt;
当日花嫁の衣装は黒の紋羽二重であったが、地模様は花菱で上品なものと言われる。裾模様は松に紅葉で雲を彩どり、帯は唐織で柳に橋の模様、地色は黄色で黒との映りがよかったとされる。&lt;br /&gt;
午後4時半に食堂が開かれ、その時には花嫁は衣装を着替え古代紫の振袖となった。裾模様はすべて能生の意匠であった。帯は綴織で、扇の模様が目立ちった。洋々たる奏楽とともに一同食堂にはいりましたが、&lt;br /&gt;
やがて末松謙澄男爵の発声でシャンパンの杯を挙げつつ新夫婦の万歳を唱えた。&lt;br /&gt;
花嫁は平民的に、来賓にビールのお酌をしていた。始終笑顔をもって客に接した。長男として大倉鶴吉(大倉喜六郎)、二女大倉正子、三女大倉てつ子が生まれる。&lt;br /&gt;
作家の子母澤寛は大蔵久美子は当時の美人の代表である[[九条武子]]、[[江木欣々]]と並ぶ美人であったと証言する&amp;lt;ref&amp;gt;子母澤寛『味覚極楽』中央公論新社,2004&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おおくら きしちろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:貴族院男爵議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:勲三等瑞宝章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1882年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1963年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>大倉喜七郎</title>
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				<updated>2017-09-28T02:52:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大倉 喜七郎'''（おおくら きしちろう、[[1882年]][[6月16日]] - [[1963年]][[2月2日]]）は、[[大倉財閥]]2代目[[総帥]]。大倉組頭取、男爵、貴族院議員。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1882年(明治15年)6月16日、大倉財閥創始者の[[大倉喜八郎]]の長男として東京で生まれる。母は芸者の徳子(1855-)。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業。英ケンブリッジ大学に留学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1922年、父親の後任として帝国ホテル会長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1924年]]の[[日本棋院]]設立時には経済面で貢献し、1946年まで日本棋院副総裁を務め名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞を1961年に創設。2006年に日本棋院[[囲碁殿堂]]入りした。&lt;br /&gt;
1928年（昭和3年）11月10日 - 勲三等瑞宝章。&lt;br /&gt;
1963年（昭和38年）2月2日、死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、公職追放を経て[[帝国ホテル]]社長への復帰を希望したが、それができないことが分かると、1958年に[[ホテルオークラ]]を創設した&amp;lt;ref&amp;gt;菊池浩之『日本の15大財閥』平凡社,2009&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 喜七郎妻 ==&lt;br /&gt;
妻は、溝口直正伯爵の娘(長女)久美子(1889-)である。伊藤公爵の媒酌にて結婚した。午後2時より披露のため赤坂葵町の本邸にて園遊会を開いた。来賓は名士千余名で、新夫人の知友として諸家の令嬢令夫人が加わり、近時まれに見る盛大なもので、&lt;br /&gt;
当日花嫁の衣装は黒の紋羽二重であったが、地模様は花菱で上品なものと言われる。裾模様は松に紅葉で雲を彩どり、帯は唐織で柳に橋の模様、地色は黄色で黒との映りがよかったとされる。&lt;br /&gt;
午後4時半に食堂が開かれ、その時には花嫁は衣装を着替え古代紫の振袖となった。裾模様はすべて能生の意匠であった。帯は綴織で、扇の模様が目立ちった。洋々たる奏楽とともに一同食堂にはいりましたが、&lt;br /&gt;
やがて末松謙澄男爵の発声でシャンパンの杯を挙げつつ新夫婦の万歳を唱えた。&lt;br /&gt;
花嫁は平民的に、来賓にビールのお酌をしていた。始終笑顔をもって客に接した。長男として大倉鶴吉(大倉喜六郎)、二女大倉正子、三女大倉てつ子が生まれる。&lt;br /&gt;
作家の子母澤寛は大蔵久美子は当時の美人の代表である[[九条武子]]、[[江木欣々]]と並ぶ美人であったと証言する&amp;lt;ref&amp;gt;子母澤寛『味覚極楽』中央公論新社,2004&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おおくら きしちろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:貴族院男爵議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:勲三等瑞宝章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1882年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1963年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%AB%96%E8%AA%9E&amp;diff=345640</id>
		<title>論語</title>
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				<updated>2017-09-28T01:45:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: リファレンス&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
成立年代は不明であるが、江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした&amp;lt;ref&amp;gt;伊藤仁斎『論語古義』(六盟館,明治42年10月),1712年&amp;lt;/ref&amp;gt;。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする&amp;lt;ref&amp;gt;「伊藤仁斎『論語古 義』を読む（1）」千葉大学留学生センター紀要,巻2,pp.67-76,1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政第二)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
成立年代は不明であるが、江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮 川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする&amp;lt;ref&amp;gt;「伊藤仁斎『論語古 義』を読む（1）」千葉大学留学生センター紀要,巻2,pp.67-76,1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政第二)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
成立年代は不明であるが、江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、前者の成立が古いとした。伊藤仁斎は初めに朱子学を学んだが、のちに朱子学を批判し、「論語」や「孟子」の原義にたちもどるべきであると主張した。宮 川康子は、近世において論語自体ではなく、論語をどのように解釈するかが思想表現になったとする&amp;lt;ref&amp;gt;「伊藤仁斎『論語古 義』を読む（1）」千葉大学留学生センター紀要,巻2,pp.67-76,1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。(学而 第一)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。(為政第二)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 孔子いわく、われ十五で学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従い、七十にして心の欲するところに従い則を超えず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私・孔子は十五歳のときに学問を志し始め、三十歳にして独立し、四十歳で迷わなくなった。五十歳のときに自分の天命を知り、六十歳では人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>四書五経</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う&amp;lt;ref&amp;gt;竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学 (書物)|大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本での受容 ==&lt;br /&gt;
日本書紀に[[513年]]、継体天皇(450-531)の時代に、[[百済]]が大和朝廷に[[五経博士]]を派遣したと記録がある。前漢の武帝（在位紀元前 141-87）が、五経を講じる職務として[[五経博士]]を設置した。&lt;br /&gt;
13 世紀初頭の[[新注]]（中国、宋代の儒学者、特に朱熹（朱子 1130-1200）により経典につけられた注釈）がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。&lt;br /&gt;
江戸時代の[[藩校]]の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。[[孝経]]は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた[[経書]]である。 &lt;br /&gt;
四書五経は、[[江戸時代]]後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい&amp;lt;ref&amp;gt;石川謙『日本庶民教育史』玉川大学出版部,1998年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『増補文選字引』&amp;lt;ref&amp;gt;山崎美成編『増補文選字引:四書五経』甘泉堂,明治11年12月&amp;lt;/ref&amp;gt; 序には、四書五経と文選は古来から初学者が素読してきた、と述べている。これらの書を読めるようになれば、たいていの書は読めるようになるとしている。読み書きの基本書として用いられていたことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>四書五経</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う&amp;lt;ref&amp;gt;竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学 (書物)|大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本での受容 ==&lt;br /&gt;
日本書紀に[[513年]]、継体天皇(450-531)の時代に、[[百済]]が大和朝廷に[[五経博士]]を派遣したと記録がある。前漢の武帝（在位紀元前 141-87）が、五経を講じる職務として[[五経博士]]を設置した。&lt;br /&gt;
13 世紀初頭の[[新注]]（中国、宋代の儒学者、特に朱熹（朱子 1130-1200）により経典につけられた注釈）がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。&lt;br /&gt;
江戸時代の[[藩校]]の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。[[孝経]]は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた[[経書]]である。 &lt;br /&gt;
四書五経は、[[江戸時代]]後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい&amp;lt;ref&amp;gt;石川謙『日本庶民教育史』玉川大学出版部,1998年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『増補文選字引』&amp;lt;ref&amp;gt;山崎美成編『増補文選字引:四書五経』甘泉堂,明治11年12月&amp;lt;/ref&amp;gt; 序には、四書五経と文選は持瑕疵から初学者が素読してきた、と述べている。これらの書を読めれば、たいていの書は読めるようになるとしている。読み書きの基本書として用いられていたことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''論語'''（ろんご）は、中国古代、春秋時代の[[孔子]]とその弟子たちの言行を記録した書物である。[[儒教]]における「[[四書五経]]」の経典の1つである。二十篇からなるが成立年代は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 内容 ==&lt;br /&gt;
成立年代は不明であるが、江戸時代の[[伊藤仁斎]]は前半10編(上論)と後半10編(下論)に分け、全者の成立が古いとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孔子いわく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや。友あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　道を学んで日々に努力する、なんと悦ばしきことであるか。道を語り合う朋友が来た、なんと楽しきことであるか。 人が道を行なわずともうらまず、自ら誠をもって接すすのは、これを君子というべきであらんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[学而]]第一（がくじ）&lt;br /&gt;
* [[為政]]第二（いせい）&lt;br /&gt;
* [[八佾]]第三（はちいつ）&lt;br /&gt;
* [[里仁]]第四（りじん）&lt;br /&gt;
* [[公冶長 (論語)|公冶長]]第五（こうやちょう）&lt;br /&gt;
* [[雍也]]第六（ようや）&lt;br /&gt;
* [[述而]]第七（じゅつじ）&lt;br /&gt;
* [[泰伯]]第八（たいはく）&lt;br /&gt;
* [[子罕]]第九（しかん）&lt;br /&gt;
* [[郷党]]第十（きょうとう）&lt;br /&gt;
* [[先進]]第十一（せんしん）&lt;br /&gt;
* [[顔淵 (論語)|顔淵]]第十二（がんえん）&lt;br /&gt;
* [[子路 (論語)|子路]]第十三（しろ）&lt;br /&gt;
* [[憲問]]第十四（けんもん）&lt;br /&gt;
* [[衛霊公]]第十五（えいれいこう）&lt;br /&gt;
* [[季氏]]第十六（きし）&lt;br /&gt;
* [[陽貨 (論語)|陽貨]]第十七（ようか）&lt;br /&gt;
* [[微子]]第十八（びし）&lt;br /&gt;
* [[子張 (論語)|子張]]第十九（しちょう）&lt;br /&gt;
* [[堯曰]]第二十（ぎょうえつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代哲学の文献]]&lt;br /&gt;
[[Category:孔子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%BA%B8&amp;diff=345068</id>
		<title>中庸</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%BA%B8&amp;diff=345068"/>
				<updated>2017-09-19T07:29:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''中庸'''（だいがく）とは中国古典の[[四書]]のうちの一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==内容==&lt;br /&gt;
子思が著わしたと伝えられる。[[礼記]]の中庸篇が独立したもので、[[朱熹]]が「中庸章句」を作ったことから、[[四書]]の一として儒教の経典となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『中庸』は四書の中で最後に読むべき書物とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 子程子曰く、偏らざるをこれ中と謂い、易わらざるを庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『中』とは偏らないことであり、『庸』は不変のものをいう。『中』は天下の正しい道であり、『庸』は天下が従う定理である。かたよらず、常に変わらず、過不足がなく調和がとれていることが中庸であると定義する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　天が命令するものを『性』といい、その性に従って行うことを『道』といい、その道を修得することを『教え』という。&lt;br /&gt;
　『天命』によって世界を統治するものが定められ、万物生成の原理が定められる。その性質に従うことが『道』であり、その道を学ぶことが『教え』である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 君子は中庸をす。小人は中庸に反す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳行の備わった人は偏らずに変化しない徳を身につけているが、徳の無い小人物は中庸に反する偏りがあり、しかも節操がない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいかく}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書|たいかく]]&lt;br /&gt;
[[Category:哲学書]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)&amp;diff=344808</id>
		<title>大学 (書物)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)&amp;diff=344808"/>
				<updated>2017-09-15T02:58:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: リファレンス&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大学'''（だいがく）とは中国古典の[[四書]]のうちの一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==内容==&lt;br /&gt;
礼記の大学篇が独立したもので、[[朱熹]]によって独立したものとされ、[[四書]]へ加えられた。[[四書]]の中でも最初に読むべき儒学の本格的な入門書とされている&amp;lt;ref&amp;gt;楊 洋「中世日本に於ける四書の受容と学風の転換」,京都大学博士論文,2016年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
政治思想の要諦を述べた書物であり、天命を受けた天子が天意を受けて万民を教化・先導していくという理想を述べている。&lt;br /&gt;
第一に必要なこととして、個人の修己を説いた。これは個人の修身だけでなく、社会的に有用な活動をするということである。&lt;br /&gt;
 大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親たにするに在り。至善に止まるに在り。&lt;br /&gt;
大学は“君子の明徳・大衆の教導・至善の保持”を重視するが、その綱領は『格物・致知・正心・誠意・修身・斉家・治国・平天下』という大学の八条目によって支えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し。&lt;br /&gt;
　物事には本質と末節とがあり、事象には必ず始めと終わりとがある。どれを先にするか、どれを後にするかを知っていれば、それは物事の本質と因果をわきまえた道に接近する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮半島には高麗（コリョ：고려）末期の恭愍王（コンミンワン）の時代にもたらされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では『大学章句』・『中庸章句』が 13 世紀に禅僧によってて初めて齌されて講じられたと推定され、14 世紀には朝廷の講読にも浸透し、明経博士の清原家が15 世紀初までにに朱子章句に基づいて『大学』と『中庸』の講筵を開いている&amp;lt;ref&amp;gt;鉄庵道生(1262－1331)『鈍鐵集』(『亓山文學全集』第1巻所収,帝国教育会出版部,1935年)&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいかく}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書|たいかく]]&lt;br /&gt;
[[Category:哲学書]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)&amp;diff=344807</id>
		<title>大学 (書物)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)&amp;diff=344807"/>
				<updated>2017-09-15T02:21:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大学'''（だいがく）とは中国古典の[[四書]]のうちの一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==内容==&lt;br /&gt;
礼記の大学篇が独立したもので、[[朱熹]]によって独立したものとされ、[[四書]]へ加えられた。[[四書]]の中でも最初に読むべき儒学の本格的な入門書とされている。&lt;br /&gt;
政治思想の要諦を述べた書物であり、天命を受けた天子が天意を受けて万民を教化・先導していくという理想を述べている。&lt;br /&gt;
第一に必要なこととして、個人の修己を説いた。これは個人の修身だけでなく、社会的に有用な活動をするということである。&lt;br /&gt;
 大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親たにするに在り。至善に止まるに在り。&lt;br /&gt;
大学は“君子の明徳・大衆の教導・至善の保持”を重視するが、その綱領は『格物・致知・正心・誠意・修身・斉家・治国・平天下』という大学の八条目によって支えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し。&lt;br /&gt;
　物事には本質と末節とがあり、事象には必ず始めと終わりとがある。どれを先にするか、どれを後にするかを知っていれば、それは物事の本質と因果をわきまえた道に接近する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮半島には高麗（コリョ：고려）末期の恭愍王（コンミンワン）の時代にもたらされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいかく}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書|たいかく]]&lt;br /&gt;
[[Category:哲学書]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=344806</id>
		<title>四書五経</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=344806"/>
				<updated>2017-09-15T02:06:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 修正&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う&amp;lt;ref&amp;gt;竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学(書物)|大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本での受容 ==&lt;br /&gt;
日本書紀に[[513年]]、継体天皇(450-531)の時代に、[[百済]]が大和朝廷に[[五経博士]]を派遣したと記録がある。前漢の武帝（在位紀元前 141-87）が、五経を講じる職務として[[五経博士]]を設置した。&lt;br /&gt;
13 世紀初頭の[[新注]]（中国、宋代の儒学者、特に朱熹（朱子 1130-1200）により経典につけられた注釈）がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。&lt;br /&gt;
江戸時代の[[藩校]]の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。[[孝経]]は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた[[経書]]である。 &lt;br /&gt;
四書五経は、[[江戸時代]]後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい&amp;lt;ref&amp;gt;石川謙『日本庶民教育史』玉川大学出版部,1998年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AF%9B%E8%93%AE&amp;diff=344245</id>
		<title>寛蓮</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AF%9B%E8%93%AE&amp;diff=344245"/>
				<updated>2017-09-11T00:51:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 大和物語。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''寛蓮'''（かんれん、874年 - ?）は、平安時代の僧で、日本で初めて「碁聖」と呼ばれた人物である。囲碁のルールを確立したと言われる。2016年7月に囲碁殿堂入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[874年]]([[貞観]]16年)、[[肥前]]藤津郡(佐賀県)生まれ。出家前は備前の掾（国司の第三等官）である橘良利であると『花鳥余情』に記載されている。出家後は亭子院（宇多天皇の退位後の御所）の殿上法師であった。[[宇多天皇]]に譲位後もつかえ、亭子法皇（宇多法皇）が山を廻り歩かれたときにお供したと『大和物語』に書かれている。&lt;br /&gt;
天皇の勅命で「碁式」という囲碁のルールや心構えなどを記した書物を作り、[[913年]](延喜13年)5月3日に[[醍醐天皇]]に献上したと伝えられる。その実物は残っていないが、それをもとにした玄尊の『囲碁式』(1199)によれば，碁に関する礼法，戦術，用具など全般にわたる書であったと考えられている。『西宮記』(さいきゅうき、平安時代)には[[醍醐天皇]]が寛蓮と右少弁清貫を呼び寄せて囲碁の対局をさせた記事がみられる。寛蓮が勝ち、唐綾（中国渡来の綾織物）四疋を与えられ、そのほか給与が支給されたとされる&amp;lt;ref&amp;gt;源高明『西宮記 : 前田本』,育徳財団,1928&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 今昔物語 ==&lt;br /&gt;
『今昔物語集』「碁擲（ごうち）の寛蓮、碁擲の女に値（あ）ひたる語(こと)」には、[[醍醐天皇]]と寛蓮が「黄金の枕」を賭けて対局し、悔しく思った天皇は取り返させようと若い殿上人を遣わしたが、寛蓮は追ってきた人にニセモノをつかませて一杯食わせ、その黄金の枕を資金にして、仁和寺の東に弥勒寺を創建したとする逸話がある。[[醍醐天皇]]は寛蓮に二子だったという&amp;lt;ref&amp;gt;『今昔物語集』巻第24,近藤圭造,明15.8&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
寛蓮が、一条から仁和寺に向かう途中、女童に呼び止められ桧垣の押立門のある屋敷に案内され対局を求められた。広縁のある板葺きの建物で、前庭は柴垣に植え込みがあり、砂が敷かれ質素ながら風雅な家であった。篠竹のすだれが懸けられ、すだれの許には碁盤と立派な碁笥が置かれていた。世に並びなき碁の打ち手ときき、対局を所望したという。最初の手を女は天元に置いた。しかし寛蓮の石が皆殺しになり、手数は少ないうちに大半の石が死んでしまった。対戦相手は人ではないと気づいて、寛蓮は慌てて逃げかえった。仁和寺に逃げ帰った寛蓮が天皇にことの次第を話すと、上皇は不審に思われ翌日使者を遣わしたところ、屋敷には老尼がいるだけであった。天皇はこれを聞いて、不思議なこともあるものだと仰せられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念碑 ==&lt;br /&gt;
[[佐賀県]][[鹿島市]]では寛蓮の故郷にちなんで、[[1952年]]（昭和27）年から毎年春に[[祐徳稲荷神社]]において「祐徳本因坊戦」が開催されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://kashima-kankou.com/Event/honinbou.html 全九州 祐徳本因坊戦　第60回記念大会]鹿島市観光協会,2011-06-03&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
[[祐徳稲荷神社外苑]]には「碁聖寛蓮之碑」があり、その台座には歴代本因坊の名が刻まれている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/11909.html 碁聖寛蓮 囲碁殿堂入り決定],鹿島市&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出家の経緯 ==&lt;br /&gt;
大和物語(951年(天暦5年）頃成立)に&lt;br /&gt;
 備前の掾（ぜう）にて、橘良利（たちばなのよしとし）といひける人、内におはしましける時、&lt;br /&gt;
 殿上にさぶらひける、御ぐしおろしたまひければ、やがて御ともにかしらおろしてけり。&lt;br /&gt;
と記載があり&amp;lt;ref name=yamato&amp;gt;雨海 博洋『大和物語』講談社,ISBN:4061597469,2006年&amp;lt;/ref&amp;gt;、寛蓮の出家は宇多上皇の出家が契機とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、&lt;br /&gt;
 さて、「日根といふことを、うたによめ。」とおほせ事ありければ、この良利大徳（だいとく）、 &lt;br /&gt;
 ふるさとの　たびねのゆめに　見えつるは　うらみやすらむ　又ととはねば &lt;br /&gt;
 とありけるに、みな人泣きて、えよまずなりにけり。その名をなん、寛蓮大徳といひて、のちまでさぶらひける。&lt;br /&gt;
とされており、たびね（旅寝）と地名のひね（日根）を掛けている&amp;lt;ref name=yamato&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かんれん}}　　&lt;br /&gt;
[[Category:日本の囲碁棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:神戸市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:874年生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B9%9F&amp;diff=343282</id>
		<title>二上達也</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B9%9F&amp;diff=343282"/>
				<updated>2017-09-05T05:25:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:futakamitatuya.jpg|500px|thumb|二上達也]]&lt;br /&gt;
'''二上達也'''（ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日）は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数	5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html 二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～]将棋ニュース,日本将棋連盟,2016年12月22日&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。&lt;br /&gt;
1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html　王将戦]棋戦一覧,日本将棋連盟&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1973年]11月九段。&lt;br /&gt;
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c　訃報 二上達也さん84歳＝元日本将棋連盟会長]毎日新聞,2016-11-04&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した&amp;lt;ref&amp;gt;[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html 『二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～』],日本将棋連盟,2016年12月22日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本将棋連盟会長 ==&lt;br /&gt;
[[1981年]]から[[日本将棋連盟]]副会長。[[1989年]]～[[2003年]]まで[[日本将棋連盟]]会長(14年間は歴代最長期間)。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://digital.asahi.com/articles/ASJC44VD4JC4UCLV00H.html 将棋連盟元会長・二上達也九段死去　羽生三冠の師匠]朝日新聞,2016年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[2003年]]から2005年まで相談役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*終盤の切れ味が鋭く、詰め将棋作家としても知られている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04HBW_U6A101C1CC1000/　二上達也氏が死去　元将棋連盟会長、羽生王座の師 ]日本経済新聞,2016-11-04&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*弟子の羽生棋聖(当時)は、穴熊のような現代的な戦法を指さないのは二上九段の美学だと語る&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sankei.com/life/news/161109/lif1611090012-n2.html 二上達也さん　棋士として貫いた美学と矜持　羽生善治棋聖]産経新聞,2016-11-09&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
*王将 通算1期　1962年度(第12期)&lt;br /&gt;
*棋聖 通算4期（第8期-1966年前期・37期～39期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html 『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる　将棋棋士・二上達也九段お別れの会』],スポーツ報知,2016-12-19&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 表彰 ==&lt;br /&gt;
*最優秀棋士賞 第 8回（1980年度）&lt;br /&gt;
*特別賞 第17回（1989年度）&lt;br /&gt;
*東京将棋記者会賞 第31回（2003年度）&lt;br /&gt;
*紫綬褒章 1992年&lt;br /&gt;
*函館市栄誉賞&lt;br /&gt;
*勲四等旭日小綬章 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふたかみ たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>二上達也</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 棋風&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:futakamitatuya.jpg|500px|thumb|二上達也]]&lt;br /&gt;
'''二上達也'''（ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日）は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数	5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。&lt;br /&gt;
1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;王将戦,日本将棋連盟[[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1973年]11月九段。&lt;br /&gt;
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;訃報 二上達也さん84歳＝元日本将棋連盟会長[[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した&amp;lt;ref&amp;gt;『二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～』,日本将棋連盟,2016年12月22日[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本将棋連盟会長 ==&lt;br /&gt;
[[1981年]]から[[日本将棋連盟]]副会長。[[1989年]]～[[2003年]]まで[[日本将棋連盟]]会長(14年間は歴代最長期間)。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://digital.asahi.com/articles/ASJC44VD4JC4UCLV00H.html 将棋連盟元会長・二上達也九段死去　羽生三冠の師匠]朝日新聞,2016年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[2003年]]から2005年まで相談役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*終盤の切れ味が鋭く、詰め将棋作家としても知られている&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04HBW_U6A101C1CC1000/　二上達也氏が死去　元将棋連盟会長、羽生王座の師 ]日本経済新聞,2016-11-04&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*弟子の羽生棋聖(当時)は、穴熊のような現代的な戦法を指さないのは二上九段の美学だと語る&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sankei.com/life/news/161109/lif1611090012-n2.html 二上達也さん　棋士として貫いた美学と矜持　羽生善治棋聖]産経新聞,2016-11-09&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
*王将 通算1期　1962年度(第12期)&lt;br /&gt;
*棋聖 通算4期（第8期-1966年前期・37期～39期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた&amp;lt;ref&amp;gt;『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる　将棋棋士・二上達也九段お別れの会』,スポーツ報知,2016-12-19[[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 表彰 ==&lt;br /&gt;
*最優秀棋士賞 第 8回（1980年度）&lt;br /&gt;
*特別賞 第17回（1989年度）&lt;br /&gt;
*東京将棋記者会賞 第31回（2003年度）&lt;br /&gt;
*紫綬褒章 1992年&lt;br /&gt;
*函館市栄誉賞&lt;br /&gt;
*勲四等旭日小綬章 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふたかみ たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>二上達也</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:futakamitatuya.jpg|500px|thumb|二上達也]]&lt;br /&gt;
'''二上達也'''（ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日）は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数	5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。&lt;br /&gt;
1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;王将戦,日本将棋連盟[[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1973年]11月九段。&lt;br /&gt;
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;訃報 二上達也さん84歳＝元日本将棋連盟会長[[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した&amp;lt;ref&amp;gt;『二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～』,日本将棋連盟,2016年12月22日[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本将棋連盟会長 ==&lt;br /&gt;
[[1981年]]から[[日本将棋連盟]]副会長。[[1989年]]～[[2003年]]まで[[日本将棋連盟]]会長(14年間は歴代最長期間)。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://digital.asahi.com/articles/ASJC44VD4JC4UCLV00H.html 将棋連盟元会長・二上達也九段死去　羽生三冠の師匠]朝日新聞,2016年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[2003年]]から2005年まで相談役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
*王将 通算1期　1962年度(第12期)&lt;br /&gt;
*棋聖 通算4期（第8期-1966年前期・37期～39期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた&amp;lt;ref&amp;gt;『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる　将棋棋士・二上達也九段お別れの会』,スポーツ報知,2016-12-19[[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 表彰 ==&lt;br /&gt;
*最優秀棋士賞 第 8回（1980年度）&lt;br /&gt;
*特別賞 第17回（1989年度）&lt;br /&gt;
*東京将棋記者会賞 第31回（2003年度）&lt;br /&gt;
*紫綬褒章 1992年&lt;br /&gt;
*函館市栄誉賞&lt;br /&gt;
*勲四等旭日小綬章 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふたかみ たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>丸田祐三</title>
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				<updated>2017-09-05T04:35:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:marutayuzo.jpg|500px|thumb|丸田祐三]]&lt;br /&gt;
'''丸田 祐三'''（まるた ゆうぞう,1919年3月30日 - 2015年2月17日）は、将棋棋士である。九段。平野信助七段門下。棋士番号43。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
母親の里帰り出産により[[1919年]]3月30日[[長野県]]長野市で出生し&amp;lt;ref&amp;gt;河口俊彦『最後の握手』 株式会社マイナビ,ISBN:978-4-8399-4999,2013年。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東京市（現東京都）浅草で育つ。東京保善商業学校(現保善高等学校)中退。&lt;br /&gt;
昭和11年に[[平野信助]]七段に弟子入りした。奨励会時代の昭和15年、三段の時に太平洋戦争に召集され、陸軍の衛生兵としてヤップ島で終戦を迎えた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/8060 戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段]NHK,2013-08-15&amp;lt;/ref&amp;gt;。復員後は特例で四段に昇段し、順位戦を12勝2敗の成績を収め、当時の勝ち星点数加算制度により三段跳びの七段に昇段。さらに翌年も昇段を決め、戦後の混乱期とはいえ、四段から二年で八段というスピード昇段記録を持っている。&lt;br /&gt;
2015年2月17日夜、多臓器不全による肺炎のため死去。満95歳没。これにより、大正生まれの将棋棋士は全員物故者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦績 ==&lt;br /&gt;
*1961年の名人戦などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年。&lt;br /&gt;
*勝ち抜き戦のNHK杯テレビ将棋トーナメントでは1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*歩の使い手であることから「小太刀の名手」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
*ひねり飛車を得意戦法とし、「丸田新手9七角」は丸田流ひねり飛車とよばれる。&lt;br /&gt;
*加藤一二三は、丸田は棋理に明るく、作戦巧者だと評している&lt;br /&gt;
*先崎学は、丸田の中盤戦における発想が柔軟で、駒がぶつかった瞬間にさっと身を翻すような手を指す、と評している&lt;br /&gt;
*1961年(昭和36年)度の名人戦（[[大山康晴]]名人に挑戦して1勝4敗で敗退）の第4局（丸田が勝利）について、記録係を務めた[[河口俊彦]]は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している&lt;br /&gt;
*投げっぷりがよいので有名であるが、ここ一番のときは粘り強かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*1969年5月-1973年5月に将棋連盟会長に就任した。&lt;br /&gt;
*1981年に藍綬褒章、1995年に勲四等旭日小綬章。&lt;br /&gt;
*[[加藤一二三]]は、理事・会長としての丸田は公平無私の人柄で大きな支持を得ていた、と評している。&lt;br /&gt;
*[[河口俊彦]]は、丸田が官庁に入っていれば、必ずや幹部に昇進しただろう、と評している。&lt;br /&gt;
*事務処理能力が高く、棋士の報酬（給与、対局料など）体系を作り、また順位戦制度の整備をして現在の形にしたとされる。順位戦の所属リーグと連動して基本給が決まり、段位・タイトル・年功などの実績による上乗せ、休場や成績不振による報酬減少の緩和などを加味して実際の報酬額が決まった。報酬体系は非常に複雑で、完全に理解していた者は丸田の他に一人しかいなかったという&lt;br /&gt;
*酒は苦手な下戸だった。&lt;br /&gt;
*1952年（昭和27年度）の第1期王将戦第6局で起きた[[陣屋事件]]の時、丸田祐三は副立会人だった。陣屋の近くの旅館にいた[[升田幸三]]の所に、王将戦の主催社である毎日新聞の記者と丸田が赴いたが、そこで何があったのかは不明。[[河口俊彦]]は、この対局が中止になったこと、連盟がいったんは升田に一年間の対局停止処分を科したことは、丸田の意向によるものだろう、と述べている。&lt;br /&gt;
*浅草育ちのため「おっ、うまいこと言うねえ」、「と、こうきたね」など、粋な江戸っ子言葉を話す。&lt;br /&gt;
*写真家[[丸田祥三]]の父。息子の話をすると機嫌がよかった。&lt;br /&gt;
*丸田八段は口の堅さに定評があり、仲間から信頼されていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
門下生には[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まるた ゆうそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1919年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B9%9F&amp;diff=343268</id>
		<title>二上達也</title>
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				<updated>2017-09-05T04:31:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: リンク&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:futakamitatuya.jpg|500px|thumb|二上達也]]&lt;br /&gt;
'''二上達也'''（1932年1月2日 - 2016年11月1日）は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数	5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。&lt;br /&gt;
1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;王将戦,日本将棋連盟[[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1973年]11月九段。&lt;br /&gt;
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;訃報 二上達也さん84歳＝元日本将棋連盟会長[[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した&amp;lt;ref&amp;gt;『二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～』,日本将棋連盟,2016年12月22日[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本将棋連盟会長 ==&lt;br /&gt;
[[1981年]]から[[日本将棋連盟]]副会長。[[1989年]]～[[2003年]]まで[[日本将棋連盟]]会長(14年間は歴代最長期間)。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://digital.asahi.com/articles/ASJC44VD4JC4UCLV00H.html 将棋連盟元会長・二上達也九段死去　羽生三冠の師匠]朝日新聞,2016年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[2003年]]から2005年まで相談役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
*王将 通算1期　1962年度(第12期)&lt;br /&gt;
*棋聖 通算4期（第8期-1966年前期・37期～39期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた&amp;lt;ref&amp;gt;『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる　将棋棋士・二上達也九段お別れの会』,スポーツ報知,2016-12-19[[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 表彰 ==&lt;br /&gt;
*最優秀棋士賞 第 8回（1980年度）&lt;br /&gt;
*特別賞 第17回（1989年度）&lt;br /&gt;
*東京将棋記者会賞 第31回（2003年度）&lt;br /&gt;
*紫綬褒章 1992年&lt;br /&gt;
*函館市栄誉賞&lt;br /&gt;
*勲四等旭日小綬章 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふたかみ たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B9%9F&amp;diff=343267</id>
		<title>二上達也</title>
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				<updated>2017-09-05T04:27:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 写真&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:futakamitatuya.jpg|500px|thumb|二上達也]]&lt;br /&gt;
'''二上達也'''（1932年1月2日 - 2016年11月1日）は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数	5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1932年]]、北海道函館市で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。&lt;br /&gt;
1950年4月、奨励会に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である大山を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;王将戦,日本将棋連盟[[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[]1973年]11月九段。&lt;br /&gt;
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で米長邦雄を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;訃報 二上達也さん84歳＝元日本将棋連盟会長[[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した&amp;lt;ref&amp;gt;『二上達也九段「お別れの会」　～関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ～』,日本将棋連盟,2016年12月22日[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本将棋連盟会長 ==&lt;br /&gt;
[[1981年]]から将棋連盟副会長。[[1989年]]～[[2003年]]まで会長(14年間は歴代最長期間)。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://digital.asahi.com/articles/ASJC44VD4JC4UCLV00H.html 将棋連盟元会長・二上達也九段死去　羽生三冠の師匠]朝日新聞,2016年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[2003年]]から2005年まで相談役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タイトル ==&lt;br /&gt;
*王将 通算1期　1962年度(第12期)&lt;br /&gt;
*棋聖 通算4期（第8期-1966年前期・37期～39期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた&amp;lt;ref&amp;gt;『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる　将棋棋士・二上達也九段お別れの会』,スポーツ報知,2016-12-19[[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 表彰 ==&lt;br /&gt;
*最優秀棋士賞 第 8回（1980年度）&lt;br /&gt;
*特別賞 第17回（1989年度）&lt;br /&gt;
*東京将棋記者会賞 第31回（2003年度）&lt;br /&gt;
*紫綬褒章 1992年&lt;br /&gt;
*函館市栄誉賞&lt;br /&gt;
*勲四等旭日小綬章 2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふたかみ たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 二上達也、将棋棋士。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;二上達也、将棋棋士。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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		<title>丸田祐三</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:marutayuzo.jpg|500px|thumb|丸田祐三]]&lt;br /&gt;
'''丸田 祐三'''（まるた ゆうぞう,1919年3月30日 - 2015年2月17日）は、将棋棋士である。九段。平野信助七段門下。棋士番号43。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
母親の里帰り出産により[[1919年]]3月30日[[長野県]]長野市で出生し&amp;lt;ref&amp;gt;河口俊彦『最後の握手』 株式会社マイナビ,ISBN:978-4-8399-4999,2013年。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東京市（現東京都）浅草で育つ。東京保善商業学校(現保善高等学校)中退。&lt;br /&gt;
昭和11年に[[平野信助]]七段に弟子入りした。奨励会時代の昭和15年、三段の時に太平洋戦争に召集され、陸軍の衛生兵としてヤップ島で終戦を迎えた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://textview.jp/post/hobby/8060 戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段]NHK,2013-08-15&amp;lt;/ref&amp;gt;。復員後は特例で四段に昇段し、順位戦を12勝2敗の成績を収め、当時の勝ち星点数加算制度により三段跳びの七段に昇段。さらに翌年も昇段を決め、戦後の混乱期とはいえ、四段から二年で八段というスピード昇段記録を持っている。&lt;br /&gt;
2015年2月17日夜、多臓器不全による肺炎のため死去。満95歳没。これにより、大正生まれの将棋棋士は全員物故者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦績 ==&lt;br /&gt;
*1961年の名人戦などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年。&lt;br /&gt;
*勝ち抜き戦のNHK杯テレビ将棋トーナメントでは1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 棋風 ==&lt;br /&gt;
*歩の使い手であることから「小太刀の名手」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
*ひねり飛車を得意戦法とし、「丸田新手9七角」は丸田流ひねり飛車とよばれる。&lt;br /&gt;
*加藤一二三は、丸田は棋理に明るく、作戦巧者だと評している&lt;br /&gt;
*先崎学は、丸田の中盤戦における発想が柔軟で、駒がぶつかった瞬間にさっと身を翻すような手を指す、と評している&lt;br /&gt;
*1961年(昭和36年)度の名人戦（大山康晴名人に挑戦して1勝4敗で敗退）の第4局（丸田が勝利）について、記録係を務めた河口俊彦は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している&lt;br /&gt;
*投げっぷりがよいので有名であるが、ここ一番のときは粘り強かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*1969年5月-1973年5月に将棋連盟会長に就任した。&lt;br /&gt;
*1981年に藍綬褒章、1995年に勲四等旭日小綬章。&lt;br /&gt;
*[[加藤一二三]]は、理事・会長としての丸田は公平無私の人柄で大きな支持を得ていた、と評している。&lt;br /&gt;
*[[河口俊彦]]は、丸田が官庁に入っていれば、必ずや幹部に昇進しただろう、と評している。&lt;br /&gt;
*事務処理能力が高く、棋士の報酬（給与、対局料など）体系を作り、また順位戦制度の整備をして現在の形にしたとされる。順位戦の所属リーグと連動して基本給が決まり、段位・タイトル・年功などの実績による上乗せ、休場や成績不振による報酬減少の緩和などを加味して実際の報酬額が決まった。報酬体系は非常に複雑で、完全に理解していた者は丸田の他に一人しかいなかったという&lt;br /&gt;
*酒は苦手な下戸だった。&lt;br /&gt;
*1952年（昭和27年度）の第1期王将戦第6局で起きた陣屋事件の時、丸田は副立会人だった。陣屋の近くの旅館にいた[[升田幸三]]の所に、王将戦の主催社である毎日新聞の記者と丸田が赴いたが、そこで何があったのかは不明[24]。河口俊彦は、この対局が中止になったこと、連盟がいったんは升田に一年間の対局停止処分を科したことは、丸田の意向によるものだろう、と述べている。&lt;br /&gt;
*浅草育ちのため「おっ、うまいこと言うねえ」、「と、こうきたね」など、粋な江戸っ子言葉を話す。&lt;br /&gt;
*写真家[[丸田祥三]]の父。息子の話をすると機嫌がよかった。&lt;br /&gt;
*丸田八段は口の堅さに定評があり、仲間から信頼されていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門下生 ==&lt;br /&gt;
門下生には[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まるた ゆうそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1919年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:将棋棋士]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:marutayuzo.jpg&amp;diff=343264</id>
		<title>ファイル:marutayuzo.jpg</title>
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				<updated>2017-09-05T03:13:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 丸田祐三（将棋棋士）&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;丸田祐三（将棋棋士）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=343143</id>
		<title>四書五経</title>
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				<updated>2017-09-04T01:16:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う&amp;lt;ref&amp;gt;竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本での受容 ==&lt;br /&gt;
日本書紀に[[513年]]、継体天皇(450-531)の時代に、[[百済]]が大和朝廷に[[五経博士]]を派遣したと記録がある。前漢の武帝（在位紀元前 141-87）が、五経を講じる職務として[[五経博士]]を設置した。&lt;br /&gt;
13 世紀初頭の[[新注]]（中国、宋代の儒学者、特に朱熹（朱子 1130-1200）により経典につけられた注釈）がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。&lt;br /&gt;
江戸時代の[[藩校]]の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。[[孝経]]は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた[[経書]]である。 &lt;br /&gt;
四書五経は、[[江戸時代]]後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい&amp;lt;ref&amp;gt;石川謙『日本庶民教育史』玉川大学出版部,1998年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=343142</id>
		<title>四書五経</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=343142"/>
				<updated>2017-09-04T01:05:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う&amp;lt;ref&amp;gt;竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=343141</id>
		<title>四書五経</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C&amp;diff=343141"/>
				<updated>2017-09-04T01:01:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Sumibb: 新規&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四書五経'''（ししょごぎょう）は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四書 ==&lt;br /&gt;
四書は、「[[大学]]」「[[中庸]]」「[[論語]]」「[[孟子]]」の４書物をいう。&lt;br /&gt;
『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。&lt;br /&gt;
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五経 ==&lt;br /&gt;
五経は、「[[詩経]]」「[[書経]]」「[[礼記]]」「[[易経]]」「[[春秋]]」をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ししょごぎょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:経書]]&lt;br /&gt;
[[Category:儒教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Sumibb</name></author>	</entry>

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